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先日、さる人の17回忌に出席したのだが、いろいろと型破りな法事だったので、記しておくことにした。
そもそもその一族は無宗教で、17回忌というのも個人の知己(坊さん)らが企画したものだと知ってはいた。それでも寺で催されるからには、それなりにあらたまった服装でなければいけないのかと、わたしも黒いワンピースを着、数珠を携え行ってきたのだが。
喪主一家、だれひとり数珠も持たず、ベージュのコートや血赤珊瑚の真っ赤な首飾とネックレスを身につけ、お焼香は一度で済ますという型破りっぷり(仏式のお焼香は、一般的に三度)。
なんつうか、わたし、「無宗教」という言葉を取り違えてたわ。誤解してた。「無宗教」って、「決まった信仰が無い」だけの、いわばプラマイゼロの在り方かと思ってたけど、そうじゃなくて「宗教的なしきたりには従いません!」的な「反・宗教」につながるんだなー。
なんていうか、すがすがしいくらいに型破りで、逆に心に残る法事だった。
いや、けっして、キライじゃないね、こういうの。
しかしこのペンケース、ジッパーぜんぶ開けるとばらばらになっちまうんだよな。コスメポーチにしようかと思ったけど、白いし汚れたらヤだしなー、などと、悩んでいる。
わたし自身はゲーセンってそんなに得意なほうでもない、なにせゲームは苦手だし、音も光も刺激的で。クラブのほうがまだしも、・・・・・・と書きかけて、ゲーセンもクラブも大して変わりないことに気付いた。音はでかい、薄暗い、若いひとが集う、という点で。違いはアレだな。色気づいてるか否か。(いや、わたしはしばしば、ごはん食べに行ってたんだけど。もうその店も無くなっちゃったしなあ、時の流れを感じるわ)
大学時代の先輩に、「婚活は考えてないの?」と尋ねられた。
顔の広いひとだったし世話好きだったし、多分親切心からだろうが、でっかいお世話だ。。とは言えなかった。
たぶん世の中、年頃になったら結婚して子供をもうけて、ってのが幸せだというのはゆるぎないひとつの価値観で、でもそれはあくまでも「ひとつ」に過ぎないということを、わかっているひとは少ないと思う。
わたしは十代のころから「非・結婚願望」(=結婚したくなーいという思い)を標榜していた、それもまた少数派だとは思うけど。でもわたしは自分と違う人=結婚したいという人、を、おかしいとは思わなかったよ。今の思いは「どっちでもいい」に近いしね。頑なになることはないかなと思っているが、しかし、結婚のために「活動」するのは、ちょっと違うと思っている。
結婚て、不自由で理不尽でどうしようもないものだって、わたしは身近なひとたちを見て知った。それは取引にも似ている、拘束、束縛、見返り、代償・・・・・・。
結婚というコトバにこだわらず、わたしはただシンプルに、あいするひとと共に居られればそれでいいと思う。
それがすべてだと思う。
Qはクエスト・クエスチョンのQ クイーンのQ カドリールのQ QEDのQ クィアのQ そしてわたしのチャイニーズ・ネームのイニシャルでもある、Q。
姉に、誕生日の贈り物に刻む文字のリクエストを尋かれたので「Q」と答えた。人生を探求(クエスト)していきたいという、これは願いでもある。
Gは「オトナオトナっていうけど、わたしたち、これから死ぬまでずっとオトナなんだよ」と言っていたけどね。言いえて妙也。
ハタチになるときはボルヘスの小品、その十年後はショウペンハウエルだった。すなわち「世界はいたるところ苦痛に満ちている」「不幸一般は、原則である」。そう、この世界は不幸であることが大前提。
そう思うとゆるせるようなきがする、わたしを苦しめ続けるこの病も、すべて。