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ゆめ か うつつ か
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先年修論を書いていた際、ものを書くことについて少しまじめに考える機会があった。

あたしはそれまで自分がものを書くということをごく簡単・素直に、自分だけの作業のように感じていた。
つまり自分が書いていて楽しい、快楽をかんじる、を優先する。メッセージなど二の次という態度、それは実は文学ではなく娯楽に近い。

人によって楽しいと思う娯楽が異なるように、そういう作品づくりは、同志を得ることができたとしても結局は小さな世界で完結していきやすいのではないか。

比べて、現実への問題意識からしっかりとしたテーマを持っている文学は広がりを持つ。それは、人間が持ちうるテーマを突き詰めていくと幾つかの基本的なものに限られて来るからだ、つまり文学とは「われわれはどう生きるべきか」という根本的な問いなのだろう。

これは個人の好みに拠るし必ずしもどちらが優れているということはできないが(現実に即していない幻想的な作品の傑作はいくらでもあるように)、あたしに娯楽ではない文学が書けるかと問われたら難しいところだ。

それは自分自身の問題、テーマをきちんと踏まえているかどうかということだから。

さてあたしに問題はあるか?と考えて、もちろんあたしという人間は問題だらけ・欠陥だらけなのだが、しかしそれは解決しうるものが大半で、生まれながらにして・或いは環境的に・困難があるわけではない。

あたしは特に経済や健康や才能に恵まれたわけではないが今まで中央に近い場所でほどほどに生きてこれたし両親も健在、つまり問題意識を持ちうる余地が少ない。

それはとても幸せなことなのだが、同時に自分=アイデンティティに対して無自覚であるということだ。

私の知人で北海道生まれの人が「いっそアイヌに生まれたかった」と言ったことがあって、あたしはその時なんちゅうことを言うのだと内心呆れた、被差別者をボウトクしているような気がしたのだ。

今ならわかる、彼は自分に守るべき何のアイデンティティも無いことを怨んでいたのだった、とりたてて守るべきものもない状態、弛緩しきった自分に絶望しているのだった。

世界で価値の高い文学(…に限らず絵や音楽や思想でも)と評価されているものは全て周縁、中央から離されたもの、ぎりぎりまで虐げられ追い詰められたものから生まれていることを考えるとき、紀州とそこから生まれた文学や思想はいろいろ面白い。

まさにその地域でしか生まれえなかったものを見たかったのだった、これは現今日本の中心都市(のはしくれ)に生きているあたしの模索のようなものかもしれない。





ところで彼女はあたしのことをたまごの中身と殻にたとえた、あたしはたまごの中身のように不定形でしっかりした形(スタイル)を持っていないがしかし確かに「そこに在る」、これはもっともな指摘だと思った。

殻を持たずにあたしは生まれた、
スタイルを持たないというスタイルがわたしのやり方で……
いつのまにかそういうふうになっていた、それを選び取っていた、「選ばないことによって選んで」いた。

どこにも自分を定めず・定められず・いつまでもゆらゆらふらふらしている。

あたしが、戦争や差別や犯罪他諸々を学び かつ 意見するにも関わらず その問題意識を創作に反映させないのは、そこに思想が絡んでくるのが怖いからだ。

世間一般ではたまごの中身より殻にこだわるし殻がこだわられる、思想が怖いのはそこで、右だろうが左だろうが基本的に大切なことは同じだとわたしは思う、たまごの中身はひとつ、言うなれば生きる上での核心部分をわたしは取り出したいのだ、それがあたしの書きたいもので……

あたしの、書くという営みなのだと思う。





水分を全て奪われ乾いてしまうとしても 中身だけをそのまま保ち続ける無謀な試み。







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