ゆめ か うつつ か
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小学校高学年から中学高校にかけて、わたしは中国文化に傾倒していた。その傾き加減はすさまじく、NHKの「漢詩紀行」を標準録画し、孔孟老の書物から漢書や後漢書のたぐいにまで手を出し、果ては中国に家出(ほんとう)するまでに至っていたが、その端緒となったのは他でもない、かの有名な三国志演技なのであった。
わたしは吉川三国志(吉川英治が書いた三国志小説を指す。日本でいちばん有名な三国志の小説)から入ったために、当然蜀びいき、しかも諸葛孔明ラブ(ここらへんは、読んだひとにしかわからない機微がある)だったのだが、まあそんな話してもmみたいな若いひとにはわかんないかな、と思ったら、どうしてけっこう知っていたのでびっくりした。今は漫画やらゲームやらたくさんあるからな~。
話が通じたので、気をよくして「姜維(きょうい)と生姜って、似てるよね」と 言ったら笑われた。
「しょうがないじゃん、しょうがくせいのときに読んだんだから、しょうがって読んでも」
「しょうがしょうが言い過ぎ、驚異(きょうい)のしょうが率だよ!」
綺麗にオチがついた!
いや、わたしは別に、狙って言った訳じゃないけどね。
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過日、わたしが夕食を作り弟あてに食事の注意書きメモ(冷蔵庫になにがあって、鍋に何があって・・・・・という類の)を残しておいたところ、親父がそのメモを見て「うまそうだな、食っちゃえ」と、つまみ食いしたあげく一品を完食し、あげくわたしのメモを破って捨てて事実を隠蔽する、という衝撃的な事件が発生した。
何が衝撃的って、
「メモを捨ててしまえば、つまみ食いがばれないと思った」
という、親父のその小学生以下の発想が、いちばん衝撃的だった。
この事件は長く我が家に語り継がれるであろう、たぶん。
というか、語り継ぐ。
怒ったから。
何が衝撃的って、
「メモを捨ててしまえば、つまみ食いがばれないと思った」
という、親父のその小学生以下の発想が、いちばん衝撃的だった。
この事件は長く我が家に語り継がれるであろう、たぶん。
というか、語り継ぐ。
怒ったから。
神代植物園の雑木林をぬけると、すぐ深大寺のうらに出る。
居並ぶ茶屋も、四時を過ぎるとあわただしく店じまい。蕎麦だんごをたべそこねた・・・・
K太郎茶屋は閉まってなかった!
屋根にあの下駄が・・・・・・でかい!
ネズミマンとK太郎がそろってお出迎えしてくれる。わーい!この写真ではよくわからないけど、K太郎は原作に忠実に、瞑目して唇をとがらかせた表情を再現しており・・・、なんというか・・・、まぎれもない「チュー顔」で、笑った。
店の横に置いてあるオールスター看板。全体に色が寒々しいので、一緒に写真を撮るといかにもそれらしい、あおざめた顔色になれる。
寒くなったら、「目玉の親父栗ぜんざい」を食べに来たい。
寒くなったら、「目玉の親父栗ぜんざい」を食べに来たい。
ところで先日「100%幸せな人の生き方」とゆーキャッチフレーズの本を見かけて、そのことばのお粗末さに、思わず眉をしかめたくなったのだった。
わたしの考えでは100%幸せな人など存在しない(なぜなら不幸を知らずして幸福を知ることはできないし、不幸だったことがある人間は100%幸せにはなれない)し、仮にそんな人が居たとしても、そんな人間は自殺するしかないと思うからだ。
100%の幸福には、不幸の可能性しか残されていない。以後どんどん不幸になるのが解っているのに生きていくということは、そのひとは100%不幸であるということだ。
100%という言葉にはそのくらい重みがあるとわたしは思うのだけど。
わたしの考えでは100%幸せな人など存在しない(なぜなら不幸を知らずして幸福を知ることはできないし、不幸だったことがある人間は100%幸せにはなれない)し、仮にそんな人が居たとしても、そんな人間は自殺するしかないと思うからだ。
100%の幸福には、不幸の可能性しか残されていない。以後どんどん不幸になるのが解っているのに生きていくということは、そのひとは100%不幸であるということだ。
100%という言葉にはそのくらい重みがあるとわたしは思うのだけど。