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ちりひとつ落ちていない、立派な境内。
平日の暮れ方だったけど、お礼参りの子ども連れの夫婦や、子授け祈願の女性などがちらほら。
うちでも姉に第二子が出来たので、安産守りを買って行こうかなとも思ったが、連絡してみると既に立派な安産お守りを持っていたので、意匠や値段など適当なものがあったら買い求めようかと思っていたが 安産お守りは2000円と4000円の二種類しかなく、しかもかなり本格的なものだったので「不適当」と判断。とりあえず、河童の鈴を購入。
そもそも水天宮は水の神様だったが、「みくまり」(水脈)が「御子守り」に通じて安産の神様になったそうな。
正直いって2009年のわたしは本能のままにしか行動しておらず、何も向上してないばかりか、唯一のとりえ(?)「やぶれかぶれでもとにかく書く、書き続ける」というわたしのレーゾンデートルすらも放棄しかけていたので、そんなことすらも反省。。。
書かずしていずくんぞ自己を保つべけんや(反語)。
・・・・・・生きてゆくのが怖くてたまらないのだが、mに逢っているときだけは救われる気がする、それはたぶんきのせいなのだがしかしその〈きのせい〉がわたしをどんなにか救ってくれているか誰にもわかるまい。
たぶん、わたしは、おとなになれないどころか こどもでいることすらできていないんだろう。
午後も遅くなってから近所の民家カフェ&アウトレットを冷やかしに行った。
*
ところでとりわけ芸の世界において、「面がいい」ってのが評判になる手合いはまず肝心の芸がおろそかな手合いが多いような気がする。いわゆるテレビ中心の芸能界は、あれはそもそも見てくれ第一の世界だし、それはそれで見た目だけの使い捨てタレントが腐るほど湧き出てくるのはしょうがない、が、しかし伝統芸能で面を売り物にするのぁいけすかん。そういう芸ごとの世界だと、面がいいのはかえって障碍だと思う。
ってのはね 深夜寄席を母と観て来たんだけど、わたしイチ押しの話巧者な噺家さんよりも、あきらかに下手なのに若くてイケメンな噺家のほうを気に入ってたからちょっと腹がたったのよね。。
ツラなんて十年保てばいいほうだ。
『白痴』/ドストエフスキー
去年の夏休みくらいに。新訳のほうで読んだ。
長ったらしくて重い文学を夏に読むのが私の中ではわりと定番。
*ストーリー覚書
列車での出会い。
商家の息子、本能の申し子ロゴージンと、善良な公爵レフ・ニコライヴェチ・ムイシュキンの運命の出会い、最初から最後までピエロの役目をつとめる小役人レーベジェフを傍らに。
・精神の病を癒すため、スイス療養から四年ぶりに戻った公爵は、ロゴージンの恋の話を聞く。ロゴージンはナスターシャという哀れにも残酷な女性に報われない恋をしているのである。ロゴージンは子供のように無邪気で作意の無い公爵のことを気に入って自分のところへ招待する。
・公爵は自分の血筋の親類に当たるエパンチン将軍夫人を訪ね、将軍自身と話し、得意な書の腕を披露もする。青ざめた青年、ガヴリーラ登場。次に、公爵は挨拶がてらに将軍夫人と三人の美貌の娘、アレクサンドラ、アデライーダ、アグラーヤと会話する。
〔可哀想な村娘マリヤの死、死刑をとりやめられた男の話(ドストエフスキー自身の体験)〕
(公爵は財産家の伯母の遺産を継ぐことになっていると、ここで判明)
ガヴリーラ(ガーニャ)は将軍の末娘を好いているのに、ほとんど金のために、ナスターシャとめあわせられようとしている。というのは、ナスターシャはもと立派な家柄の娘だったが、両親が亡くなり孤児になったところをトーツキイという財産家に拾われ、ひそかに愛人にされていたのだった。
しかし、美しいだけでなく聡明で情熱家のナスターシャは、トーツキイが自分を捨てて立派な婦人と結婚しようとしたところに待ったをかけ、自分への償いを要求した。
トーツキイはナスターシャへの償いに、持参金と結婚相手を見つけてやることにし、その相手として貧乏な青年ガーニャが選ばれたのだった。
公爵はひとまずガーニャの家に下宿することになる。
ガーニャの父親は虚言癖のある老人で、それに母と妹、弟、下宿人たちがいる。
そこにからかいのためにナスターシャがガーニャを訪問する。奔放にふるまうナスターシャに、伯爵は思わず「あなたはそんな人ではない」と声をかける。
公爵はナスターシャにかつてマリヤの面影を観、思わず彼女に結婚を申し込む。ナスターシャは思いがけない求愛にひどい興奮状態に陥る。彼女は、ガーニャを試そうと持参金を火中に投じ拾わせようとする。ガーニャはプライドと欲に責められ卒倒してしまう。ナスターシャは公爵のためを思い、「自分と結婚しないほうがよい」とナスターシャを盲愛するロゴージンと一緒に逃げる。
(公爵はナスターシャの後を追い、一緒に暮らすが、ナスターシャは必ず逃げてしまい、ロゴージンと公爵の間をふらふらしている)
・時が経ち、公爵はエパンチン家に出入りするようになっている。末娘のアグラーヤと一時は婚約の話も出るほどであったが、結局はそのアグラーヤ自身が巧妙にナスターシャを追い詰め、最後に公爵をしてナスターシャを選ばせる。破滅的な結婚式の前日、ロゴージンは花嫁をさらい、刺し殺す。
公爵とロゴージンは二人でナスターシャの死骸をはさみ、通夜をする。
一夜あけ、公爵は完全にまた白痴になってしまっていた…
*
いろんなタイプの人間が居て、大変リアルで面白い人間模様。カラマーゾフより好きかもしんない。
とりあえず公爵。みんなに好かれる!自分を騙そうとしてやってきた連中までもが公爵に友情を誓う始末だし、あのロゴージンだって、ナスターシャをめぐり公爵を殺そうとしたものの、公爵を愛している(公爵が、偽だと知っても騙されてやって買った偽の銀の十字架を、ロゴージンが自分のものと取り替えて、大切にしているシーンとか泣ける)。
ナスターシャがかわいそうでねえ!
慰み者になっている当時、いつも高貴な人から「あなたは悪くない、わたしはこころからあなたを愛している」といわれることをゆめみていたのに、いざ公爵を不幸にしたくなくて、でも愛していて、たえずついたりはなれたりしているところはもう完全に昼ドラ。
アグラーヤも聡明でかわいいんだけど、感じやすいくせに高慢なところがね。カラマーゾフでいうエカテリーナだな。
ナスターシャの顔を恐れる公爵。「あの人の顔をみると、心臓を突き刺されたように感じる」。愛ではなく憐憫の情といったり愛しているといったり。のちに、すべてが起こってしまったのちのエヴゲーニイ・パーヴロヴィチの言葉がもっとも要を得た言葉だと筆者は言ったが、たしかにそうだと思った。公爵はひとりの女のためにもうひとりの傷ひとつ無い女に傷をつけた。「ふたりながらに愛する」とはどういうことか?おそらく公爵しかできまい。
彼女がガーニャに、炎の中の十万ルーブルを拾わせようとするくだりの、プチーツィンのことば。
「話によると、日本人のあいだによくこれと似たようなことがあるといいますね・・・日本じゃ恥辱を受けたものが恥辱を与えたもののところへ行って『きさまは俺に恥をかかした、だからおれは貴様の目の前で腹を切ってみせる』というそうじゃありませんか。そして、ほんとに相手の目の前で腹を切って、それで実際にあだ討ちが出来たような気分になって、すっかり満足するらしいんですがね。世の中には奇妙な性質もあるもんですねえ」
つまりは・・・自虐的ということか。
ラストシーンが美しい。ナスターシャの遺骸を真ん中にねむる、ふたりの男。
公爵の言葉でもっとも共感したもの。
→「私はいつも自分のこっけいな態度で、自分の思想や肝心な観念を、傷つけないかと恐れているのです。私にはみせかけの行為というものがありません。私のそれはいつも正反対になるものですから、みんなの笑いを誘って、その観念を傷つけてしまうのです。また感情に節度というものがありません・・・」
ドストエフスキーのいわゆる「無条件に美しい人」の創造が、公爵のようになる世界なら。
今はもっと加速しているだろうか。