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ゆめ か うつつ か
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おとなしく話を聞き流してりゃよかったのについ議論しちゃった、だって、「省エネとかエコってキライ。消費しなきゃ生産なんて無いんだから。経済大国が消費すれば途上国だって生産(シゴト)がまわってきて豊かになれる」とか、言うから。

ウォーラーステインの世界システム論を、わたしにできる範囲で説明したけどわかってもらえず、まあじゃあいいか 60年代に青春を送ったひとと90年代に青春を送ったひとの世代間違和について、って方向にシフトしたら「それはマナ識」だっていうからつい、阿頼耶識の意味及びブッディズム・大乗仏教とインド哲学・上座部仏教の差異の話になり当然話しおわらず…アショカ王も知らずに仏教哲学語るな、って偉そうかしら。



〈俺の幸せのためなら 誰かが傷ついてもどうでもいい〉 って聞こえたの、それがこの世界の基本原理だとは知っていつつ。

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●「わっきり言って」=「はっきり言って」の強調形。 「は」 が 「わ」になることによって話し手の感情をより強く伝える効果がある。

例)「わっきり言って、もう面倒見切れないんだよね」

●「あんまりジャンプじゃないジャンプ」=『ヤングジャンプ』や『赤丸ジャンプ』他、ジャンプ度(主に、友情・努力・勝利の三要素によって定められる)が低いジャンプのこと。

例)「M宮Hろしって、最近はあんまりジャンプじゃないジャンプに連載してるよね」

●「そらまめ」=「空耳」のこと

例)「何か聴こえない?」「そらまめじゃないかな」





イイ間違いですね!

 

火曜日の深夜、いや 水曜日の早朝に帰宅したら、弟がまだ起きていて 疲れ果てた顔で「今日は大変なことがあったんだよ」と言った。

まさかmのことが親にばれたんだろーか、それはちょっとやだな と思っていたら そうではなく、両親がケンカして母が家出するというのを、なだめるやらさとすやら叱るやら忙しかったらしい。

どうやらわたしの留守中に 夫婦ゲンカという、ここ数年無かったけれど起こると相当面倒くさいイベントが発生したらしい。今が校了でなければ確実にわたしがことに当たっていたと思うとちょっとぞっとしないが、しかし留守がちな弟もたまにはその大変さを思いしってみるといいのではないかと思って同情しながら話を聞いていた、ら、

「そんで兄ちゃんが仕事辞めるって」

ときたもんだ。

…個人的には、兄は相当前から精神を病んでいて 仕事はおろか日常生活も危ぶんでいたほどなどで、それは至極当たり前のことのように(むしろよく今まで保ったもんだと)思ったが、そう思っていたのは私だけだったようで 弟も母も「正気の沙汰ではない」と情け容赦なく兄を断罪していてちょっとかわいそうなのだった。

弟も母も精神を病んだことが無いから、自分のことや 誰かのことを 死ねばいい って思ったことはないし、まして生きるのがめんどくさいなんて 思ったことすらないのだろう。

今の兄に必要なのは明確に 療養 回復 人に成ること なのだが、母にとってはそうではなく ただこの無慈悲な社会でソツなく稼ぎ生きていくことらしい。どう考えても「それ以前」の話なのだが、しかしこれは言っても通じないだろう。その昔、母は不登校を主張したわたしを家から追い出し 鞄と制服を放って扉に鍵をかけた。それでわたしはいよいよもって生きる自信を失くした。そんなわたしを励ましてくれたのは兄だけだったがしかしわたしは今兄を救うことはできないのだった、だがしかしまあさしあたってそれはどうでもいい。

どうしようもなく弱い人間は存在するのだから どうか理解してあげてください ゆるしてあげてください でなければいっそとどめを刺してあげてください。


それでもひとは回復できるって信じているよ!




已経習慣」……撒慌。可能永遠不習慣、活得太難。過了多久、不知不覚好像我老了。怪不得那麼累。世界轉太快、追不上也無所謂。有人在我傍辺、聴他軽軽的穏定的呼吸就好。

還会説什麼?
無法言語。





携帯から中国語を打つのは難しい。
ヒヤシンスの芽が、乾いた赤紫色の皮を割って顔を覗かせている。翡翠のように半透明で、みずみずしくなめらかな芽だ。

新芽を見ると何かしらうずうずする。卵が孵る前みたいだ。





ところで私は春になると必ず体調を崩す。持病なので仕方ないけどね、花粉症の一種で、医者いわく花粉が皮膚に付着して炎症を起こすんだそうだ。それでまたあっけなく不眠症の日々に戻るわけ。

ま、私個人の不健康な話を書いてもあまり楽しくないのでこのへんでやめておくがしかし、哲学的っつうか厭世的っつうか、やるせない気分になるのはこういうときだ。

能力とか健康とか家柄とか経済力とか、生まれつきどうにもならない差ってある。格差社会なんて最近の言葉のように考えてる人が多いけど実は有史以来、人生てのは格差が前提だし差別の連続でもある。それを思えば自分の居る場所はそんなに悪いもんじゃない。恵まれた人を羨む気にもならないが、恵まれない人を哀れむ気にもなれない。それは只の現象に過ぎない。

世界は自分のためにあるわけではないし誰かのためにあるわけでもない、厳然とそこに存在するだけだ。


ってこういう考えを深めてしまうとある日突然金やら家やら環境やらの一切を放棄して世界を放浪しようとか思ってしまい非常に危険なの。

そういう衝動は過去二度ほど実行してるが思ったほど楽しくはなかった、わたしはまだまだ水気たっぷりのようだ。

砂のように乾ききれれば。春も怖くはないのだけれど。
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