[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
山ではきのこのとり残しをチェックして、カモミールを摘んで、花豆の収穫して、雪にそなえて屋根の落ち葉を払って…落葉松がちょうど紅葉の盛りで、山が金色に色づいてとても美しかった。天気は爽やかな秋晴れで あおいそらにこんじきのやま が やわらかく かがやく…
帰りに、いつも寄る温泉で、地元のおばあちゃんと十五夜の月を眺めながら四方山話をしていたら
「あと一月もするとトオカンヤだねえ」
! いきなりの民俗用語にびっくり。トオカンヤ(十日夜)というのは関東地方の冬のお祭りで、皆で集まってお持ち食べたり・モグラ除けに縄を編んだもので地面をひっぱたいてまわったり…っていうことを昔、民俗学で習った、習っておいてよかったと思った、おかげでみしらぬ土地のおばあちゃんとコミュニケーションできる…
*
眠気に任せて車をぶっとばし帰宅、レジュメ直しの期限は連休中…「枠組みをしっかりさせろ」「本文を書き出せ」逆なようで実は同じことなのかもしれないなぁこれ、ああ・時間が無い…
ところで修論無事提出できたらヨーロッパへ行くかもしれない。まだわからない。
松本清張は時々読みたくなるんだけど、コレは文句なしに大当たりだった!久々に最後までオチが読めない推理モノと言えよう。古代史とか民俗学の知識盛りだくさんで、そういうの好きな・つまりあたしのよーな・人にはうってつけ!羽衣伝説と浦島伝説を一本化して考えたことは無かった…かつ、フダラク信仰(浄土思想)は及び松尾様(酒の神)まで出てくるとは…それで冒頭、天橋立だったらそりゃ、惹かれるわ。
天橋立好き。また行きたい。
*
それにしてもレイトショー観たら終電ってありえないよね。
昨日寝てないけど数時間後には長野に向けて出発です。わーい!山小屋もそろそろ冬支度しないとやばいんですよ、トイレ凍結するにはまだ間があるとしても霜はそろそろではなかろーか。もちろん日帰りでーす。徹夜で運転は何度か経験あるからだいじょぶ。明日は晴れ、らしいし。
ねむいなあ。
午前中は学校、午後は別件の文化祭に強制召喚されてご機嫌伺い、夕方一回おうちに戻っていろいろ、洗濯物やら食材の買い物やら夕飯やら支度してからGにとっといてもらったレイトショー「デスノート後編」観に。
以下、感想。ネタバレ反転ご注意。
前編よりはるかに編集がきめこまかくなっててびっくり!導入もスピーディであれくらいなら観客も自然に入り込めるかな。音楽の使い方も前回よりは全然マシ。監督違う人なんじゃないの?と思ってしまった…やっぱり前編は時間無さ過ぎたのかな…。ただやはり演技についてはひっかかるとこ多々アリでしたね。アナウンサーのカツゼツとか。甘い。犯罪者とか心臓発作の演技も、前編よりマシだったけどところどころ難が・あと大学がやたら安っぽかったのがきになった。背景とか小道具の安っぽさは最後までつきまとったな…。
主役の藤原君はさすがの演技でした。でもやっぱ老けすぎてる気が。あと、初対面の女の子を自室のベッドに座らせるというのはキャラクタ的にNGだと思った。L役のひとはいい線いってたんだけどもう一歩だったな。特に喋り方。息継ぎおかしい。演技のため意図的におかしくしてるというのがわかるというのは演技ではない。
んで 私が言いたいのは「子殺し」か「尊属殺人か」ってことで…
途中から、主人公が親殺しの禁忌を犯すだろうというのは見えてたんだけどその先で…ひっくりかえったのがなー… いかなる物語でも、子が親より先に死ぬという結末はよくないと私は思っている。この物語では主人公が自分の親を殺すか否かということがひとつのドラマ要素になっていたと思うんだけど、結論から言うと私は「親殺し」はありうる結末だと思っていたし、主人公はそうせざるをえないと思っていた。でも映画でもやはりそういう結末は選ばれなかった。
「尊属殺人」「親殺し」っていうのは世界的・特に日本含む旧中華文化圏では最大のタブー・なんだよね…親が子を殺すより、子が親を殺す方が罪も罰も、ずっと重い…そういう風潮が今も、ある。堕胎や間引きだって殺人なのに殺人とはみなされない…親は子供を殺していいが その逆は許されない ゆるされえない…
『軍鶏』っていう漫画で主人公は、両親を殺して少年院に入りその日のうちにカマを掘られていて、それで「強くなろう」と決心した。そして強くなった主人公の通り名は「親殺しの…」。殺人よりゴウカンよりドロボーより他のどの犯罪よりも忌み嫌われている、それが「 親 殺 し 」。
殺人が悪いことだとかそういう基本的な前提はとりあえずおいといて。いかなる世界でも・子が親より先に死ぬことはよろしくない。
よろしくないんだよ。
この物語のテーマとは大きくずれているかもしれないがそもそもこの物語にはテーマなど存在しないだろうと思っている、少なくとも原作には。この物語は積み木と同じで、誰かが何度でも好きなように組み立てられる要素を持っている。それは語り手が抹消されている=言い換えれば作者が主義主張を完璧にとっぱらっているからだ。そういう物語のことを「神話」もしくは「伝説」という。
同居人とは日々くだらない事やくだる事で論争交わしてるんですがどっちもへそまがりなので90度くらいずつ明後日の方向向いた議論を交わし、結局二人して同じことを言ってるのだと一時間後くらいに気づいたりする。
それにしても大学はやっぱり学び舎というか・勉強する人のためのものなんですよ当たり前に。論文書けない奴は死ね・って世界なんですよ本質的に。中世の大学内では完全自治が行われてたってのは世俗の法で裁けない・世俗と異なる世界だったからで…それはギルド(職業組合)とは明らかにちがう、つまり・職を得て世間に出るのとは根本的にちがう…
東洋の大学は官僚養成の意味合いもあるけどね、いずれにしろ「職業訓練校」ではありえない。ましてやお友達探しするとこでもないわけで。
クリエイター育成とか就職ご用達とかそういうのは大学ではない。そういうのは、大学ではなく職業訓練校と名乗ればよいと思う。就職するために行くもんじゃない、学ぶため、研究するために行くものだから。
大学の存在意義はそこに「あった」はずなのにねえ…いまや大卒は就職のためのパスポート、それっておかしいのに誰も何も言わないの…それとも、おかしいのは…あたしなのかな?
ふにおちないまま・大学行ってきます。