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ゆめ か うつつ か
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海の向こうに「常世」があると女は言った。 





気がつけばわたしは塩辛い砂に顔を埋めていた。女がひとり、わたしを覗き込んでいる。一心にこちらを見つめる人形めいた白い顔、嵌め込まれたような黒い瞳はくろぐろとうるんで鏡のようにわたしを映し出した。自分がひどく情けない顔をしているのが分かりわたしは顔を背けた、女はくすくす笑うとわたしを助け起こし、海の近くにある自分の住まいへ連れていった。女は何も訊かなかった、訊かれても答えようもなかっただろう。わたしに記憶は一切無かった。

そしてひとつめの夜がやってきた。わたしはとめどない不安に寝返りを打ち続けた、目を閉じても闇、開いても闇であった。過去にも未来にも光ひとつ差さない、わたし自身が無明の闇なのだ。

不意に自分にのしかかってきた黒い影を撥ね除け、わたしは思わず飛び起きた。掴みかかってくる影と無言で格闘するうちに、頬を打つ冷たい髪と細い腕が他ならぬ女のものだと気付く。途端に全身の力が抜けて行った、夢魔のごとく蠢く女にわたしは身を任せた。他にどうしようもなかった。

他にどうしようもなく、わたしは女と暮らすようになった。女は美しかったが、知性のかけらもなく始終くすくす笑ってはわたしの後ろを付いて回った。そういう女にありがちなように年齢はわからなかった。ただ夜毎水母のように絡み付いてくるその身体の冷たさがわたしをぞっとさせた。

浜に出ては貝や藻草や小魚を拾う日々が過ぎていった。女は嬉しそうにわたしの後ろを付いて回り、他の連中はといえば、突然集落に現れたわたしの存在を見事に無視した。まるで初めから居ない者のように…あるいは初めからそこに居た者のように。彼らはわたしという人間の存在を気にもかけないようだった。

水底のように静かな集落、魚の群れめいて無口で鈍い人々の間にも事件は起こる。
物持ちの家から丹塗りの器が消えたという噂が小波のように辺りを騒がしたのは、もはや数えきれぬほどの夜を過ごした頃だった。わたしは変わらず彼らに無視され続けていたし、わたし自身にしてもそんなことに関心は無かったので、それは単調な日々に紛れてしまうはずだった。女が見たこともない赤い器をどこからか取り出して来くるまでは。
それまでも、女が不釣り合いなほど美しい首飾りや上等の着物を身に着けていることがあった。どこで手に入れたかなどと尋ねるまでもない、浜には時折そういった値打ち物が流れ着くことがあったからだ。しかし今回は違う。わたしは女を問い詰めた。女は浜に流れてきたのだと言い張った、だがわたしは知っていた。女は盗んだものを海に捨て、それを再び拾ったのだ。

―うみのむこうからながれてきたものは、ぜんぶあたしのものだから―

女はたどたどしく言い訳した。海の向こうには常世がある。海に流され戻って来たものは誰のものでもない、新しいモノに生まれ変わる。
海に捨て、拾う。女にとってそれは所有の権利を得るための儀式なのだ。黙り込んだわたしに、機嫌を直したと思ったのか女はにわかにきらきらと瞳を輝かせ、呟いた。

…あなたも、ながれてきたよね?

その一言はわたしをぎょっとさせた。
まさか私もこの女に呼び寄せられたというのだろうか?

その頃になるとわたしは女に、海に、この場所に、逃げ場の無い日々にうんざりしていた。わたしは逃げ出したかった。女の一言はわたしの決意をうながした。
逃げよう。もうどこでもいい、ここでさえなければ。女の痩せた身体を手荒く扱いながらわたしは思った。どこだってここよりはマシだ。どっちを向いても希望のかけらすらないこの地よりは。

そして真夜中に、わたしはその小屋を抜け出した。だが一体どこに行けば良いというのか?どこに辿り着こうというのか?月も星も無い黒い空を見上げ途方に暮れるわたしの耳に、かたりという物音が聞こえた。振り向くと、闇の中に白いものが佇んでいる。 

女だった。 

すはだかの女が戸口に立っている。うなだれ、両手で自分の身体を抱きしめているその様子はひどく頼りなげで、わたしは初めて女を憐れに思った。
いくの?女はあどけなく呟いた。またいってしまうの?女は首を傾げ、おずおずとわたしに近付いた。
また?
わたしの問いに頓着せず、女は緩慢な動作で片手をふりあげた。その手には鈍く輝く鉈が握られていた。
ゆるやかな、しかし的確な一撃をしたたか頭に受けながらわたしは思った。

―ああ、また海に流されるのだな―

何度でもわたしは殺されるだろう、流されるだろう、戻って来るのだろう。常世に拒まれた者の行き着く先であるこの場所へ。



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