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満月の光に導かれ、海にもぐる。やがて水底に、幾重にもゆらめく海草に守られた城が見えてくる。近づくとそれは突兀たる奇岩から成り、まるで城らしくはない。しかし私にはそれが城だということが解っている。あたりは夜明けのような薄暮のいろ、涼しげな青に満たされ、かろやかなここちよさがわたしを包んだ。いくつもの道、いくつもの迷路を捌きながら奥へ奥へと進んでゆくと、突然視界が開け、広場のようなところへ出る。そこには大きな宝石箱があり、私はそれを開く。とたんにまばゆい光がわたしを包み込む。
*
わたしは見しらぬひとの頭をひざの上に乗せ、その髪を撫でている。もうずいぶんと長いこと、わたしはこうしている。そのひとは静かに、穏やかな寝息を立てている。それだけでわたしは息詰るような幸福を感じる。 そうしているうちに、わたしの髪は伸び、肩を覆い、背に流れ、地に着くほどにもなった。かのひとは目覚めない。わたしの足は大地に根が生えたように何も感ずることはない。 草が生いでては枯れ、樹木が育ち、やがて見る間にわたしの周りに道ができ、街が出来た。かのひとはその頃ようやく目覚め、伸びをし、そしてわたしを見つめた。その眸は澄んでいて、とても美しかった。 「おはよう」 わたしは言った。 「おはよう」 かのひとも言った。 「ずいぶんと眠ってしまったようだね」 わたしはうなずき、ためらいがちに立ち上がる。かのひとは優しく微笑し、うながした。 「さあ、行っておいで」。そう、今度は、わたしが旅立つ番なのだ。
*
十歳くらいの頃に見た夢。
よほど印象深い夢はこうしていついつまでも覚えている。
姪っ子のAが二歳になり、今現在姉の腹に居る第二子についてもその存在を理解しているようで、誰かれ構わずお腹を指しては
「おなか、あかちゃん、いる??」
などと尋ねている。そこでわたしがAのお腹を指して、
「Aちゃんはー、おなか、赤ちゃん居るの??」
と尋ねてやると、嬉しそうに笑いながら
「いなーい!」
と言う。幼児ながら、なんとなく事情がわかっているらしいと思うと、ちょっと面白い。
これがもう少し大きくなったら「赤ちゃんってどうやってできるの?」とか質問しだして困るんだろーなー。
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山岸涼子の漫画に、「子どもなんてぞっとする ああもなりたくなかった こうもなりたくなかったという自分の成長をもう一度見せつけられるのよ」みたいな台詞があって、怖いことを言うなあと思った。
わたしには、小さい頃から今に至るまで苦しんでいる、そのために一度ならず「死んじゃおうかなー」と考えたことのある持病があって、これは遺伝的に受け継がれてゆく可能性が高いそうだ。なのでわたしは十代のころから「自分は出産することはたぶんないんだろうなあ」と漠然と思っている、これは決意っていうよりもっと曖昧な、なんていうか「呪い」のようなものなのだけれども。
子どもを産んだらね、その子ども自身が「呪い」そのもののような。そんなわけないけど、そういうふうに考えてしまうんだ、その考えから逃れられないんだな。おお、「呪い」っぽい。
まあ、いずれにせよ子どもは親のものではないし、おぎゃあとこの世に生まれちまったなら、それ以降の苦しみも悲しみも、全て子どものものだ。
わたしだってそうだった。
うちの近所に、二車線しかない小さな自動車道だが、駅周辺&国道に接続するためにいつも大変に混雑する通りがある。
その通りの道の脇に、「ドライブホイ!」という看板があることに気付いたのはmだった。
m「あの看板気になるわ~」
いわく、件の「ドライブホイ!」の看板の下には焼き鳥(?)の屋台があり、渋滞で動かない車のウインドウから直に注文を受けて「ホイ!」と渡すのだということ。
m「ドライブスルーならぬドライブホイ!ってわけか……」
爆 笑。
ネーミングセンス無さすぎ、だがそこが良い。
でもほんとに行きかう車が注文してるんだよ。NYの大混雑の新聞売りみたいだな、すげーな、って思った。
о凹
о凹
凹о 凹о 凹о 凹о
о凹
…死屍累々、なんちゃって。
*
それなりに凹むことがあって、薄明のなか帰還。さなきだに夏の夜は短く我憂ひのうちに晨を迎う也。
覆水盆に返らず、取り返しのつくデータでまだしも良かった。あとは一ヶ月くらい自己嫌悪すれば立ち直るだろう。