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弟「限りある20代の間にはっちゃけておこうと思ったのかと……」
馬鹿にするな!
わたしはなあ、30になろうが40になろうが自分がやりたきゃ金髪にするわい!
そして30になろうが40になろうがエイプリルフールにはいっしょうけんめい嘘をつく!
だいたい20代が若いって、そりゃ世間の思い込みであって、自分自身の経験を元に言うならわたしは10代前半が最も老けていた。悪い意味で。
ちなみに金髪はおろか紫、ピンク、ブルー、グレイその他一通りの色は それこそハタチの頃に不本意ながらお試し済みなのでもーいーや。
今ちょうど小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を読み返しているので、古木と聞くとなにやら怪奇のかほりがするのであった。『雨月物語』『耳嚢』『怪談』その他江戸期の怪奇短編系は昔から好きだったが、最近大塚英二氏原作の民俗三部作漫画を読んで再燃。
「茶碗の中」とか、あの唐突にぶったぎられたあとの余韻がいいよね。説明が最後までつかない、わからない、理不尽さは和モノホラーの傑作だと思う。
散策中、とことこ歩く毛玉を発見。
近くに寄ってみたら、猫だった。一見何の生物かわからないほどふわっふわ!
呼びかけたらくるっと振り向いたので、ひとしきり撫でる。
チンチラと三毛猫の雑種かな、ポメラニアンのようなボリュームの毛皮だった。首輪はしてなかったけど人懐こかったし、飼い猫ではなかろうか。
後日 酒と甘味を用意して、mと花見へくりだすも 花冷えとはよく言ったもので、あまりの風の冷たさに、三十分ほどでお開きにする。それにしても酒のつまみにグミはねえよな。反省した!
補足。「倫理的にアウト」の話ね。
前置きとして、、
もともとわたしは道徳倫理は苦手なんだ、わたし自身、道徳倫理から遠く離れたところで生きてる自覚があるんでね。何せ学生時代の「道徳と倫理」の講義、Cだったからね。200人近い大教室での講義はほぼ全て出席し、質問カードも毎回ぎっしりで提出、そうしたわたしの疑問がプリントに取り上げられたことも2、3度ではなく、テストもばっちり受けたのに、C。これはもうわたしの考えそのものが道徳倫理的にCであると、納得いかないながらむしろ誇らしいような一種の感慨を覚えたものよ。あんだけ頑張ってCってことは、頑張らなかったら落第してたんだろうなってくらいに。
そんな感じに、ひと一倍頑張らないと道徳倫理的になれないような人間なんですわたしは。
つうかね アクティブ=行動的であること、好奇心旺盛であること と、道徳倫理的であること は、なかなか両立しがたいのよ。『エチカ』に手を出そうとして演繹法にうんざりしてやめちゃった人間ですからね、人だの神だの自然だのそんなんどーでもいーの、ようはわたしがわたしの基準で正しく在ることができているか。
そしてその基準はまだ固まってないの。わたしを「卵の中身」ってゆったのはRちゃん君だろう。わたしは基準を作らないことによって存在できているの、ゆらゆらふわふわしながらとらえどころなく固まりもせず。
道徳倫理って「こうあらねばならぬ」のオンパレードだから・苦手なのかな。
言ったけど、
・人を殺さない/ゴウカンしない
これと 麻薬はやらない、くらいじゃないかなわたしの倫理的タブーって。
ようは他人を傷つけるなってことで、ひとつだけ確実にいえるのは、わたしは基本的に、人間を愛している。
大切なのはそのときに自分が生きてる世界を読むことで、これを読み違えると大変だから。学問の世界なんて常に抜き身の刀で切りあってるようなもんだったが 家庭やお仕事や交友関係でそれはできないし。
*
一応ね 調べてみたら
道徳=社会規範から生まれた慣習のこと
倫理学=善や道徳的行動についての学問
だって。なるほど社会規範ね。穿ってるわあ。社会なんてわたし いまだちっとも馴染めていないもの。
そういうわけで、社会規範を前提に発言者の倫理観を照らし合わせてみると、わたしの言葉の意味もそれなりにつかめるのではないのかしら。。
おそまつさまでした。