ゆめ か うつつ か
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北京で飲んだ珍珠女乃茶(パールミルクティー、タピオカミルクティー)がmに好評だったので、チャイナカフェに行ってきた。
そうしたら、大好物の湯圓(白玉に胡麻餡が入っているデザート)もあったので、これも一緒に美味しく頂いた。湯圓は本当は元宵(十二月末)の季節限定なんだけど。。
大体においてわたしはグミだとか胡麻豆腐だとか、もちもちした食感が好きだ。なのでパールミルクのタピオカは画期的だった。一見したところ黒く丸い物体が液体に沈んでいるので、「カエルの卵みたい」と言う輩も居たが、喉の渇きと飢えを同時に満たせる小粋なスイーツであるといえよう。
初めて飲んだときはなんと美味いんだろうと感動し、弟が夏休みに北京まで訪ねてきた際には純粋な親切心からオゴりで飲ませてやったのだが。
折からの猛暑で激しく喉が渇いていた弟は中にタピオカが入っているとは思わず勢いよく中身を吸い込み、吸引された無数のタピオカは弟の喉にあやまたず直撃した。盛大にむせ溢した弟は、ために、パールミルクにはあまり良い思い出を抱いていないらしい。遺憾の限りである。
まあそれはそうと。日本にも気軽に立ち寄れるパールミルクティー専門のドリンクスタンドがあればいいのにね。起業しようかな(笑 (←などと笑っていたら、もう既にあったのね。知らなかったよ!)

そうしたら、大好物の湯圓(白玉に胡麻餡が入っているデザート)もあったので、これも一緒に美味しく頂いた。湯圓は本当は元宵(十二月末)の季節限定なんだけど。。
大体においてわたしはグミだとか胡麻豆腐だとか、もちもちした食感が好きだ。なのでパールミルクのタピオカは画期的だった。一見したところ黒く丸い物体が液体に沈んでいるので、「カエルの卵みたい」と言う輩も居たが、喉の渇きと飢えを同時に満たせる小粋なスイーツであるといえよう。
初めて飲んだときはなんと美味いんだろうと感動し、弟が夏休みに北京まで訪ねてきた際には純粋な親切心からオゴりで飲ませてやったのだが。
折からの猛暑で激しく喉が渇いていた弟は中にタピオカが入っているとは思わず勢いよく中身を吸い込み、吸引された無数のタピオカは弟の喉にあやまたず直撃した。盛大にむせ溢した弟は、ために、パールミルクにはあまり良い思い出を抱いていないらしい。遺憾の限りである。
まあそれはそうと。日本にも気軽に立ち寄れるパールミルクティー専門のドリンクスタンドがあればいいのにね。起業しようかな(笑 (←などと笑っていたら、もう既にあったのね。知らなかったよ!)
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とり
鳥籠にいろとりどりの小鳥が入っている。珍しい南国の鳥たちの、やさしいさえずり。わたしはこの宝石のような鳥のどれを持ち帰っても良いのだ。
鳥たちに目を奪われてあれこれ迷っていると、不意にがああとしわがれた声がする。ふりむくと、床の上、からすの子供がぴょんぴょんと飛び跳ねてこちらへやってこようとしている。まだ羽も生え揃っていない子供とはいえ、私の顔ほどの大きさはある。わたしは思わず数歩後じさったが、そいつは嬉しそうにがああと泣いてわたしの後を付いてまわった。親と勘違いでもして居るのか、甘えた声音で首をかしげ、そうして戸惑うわたしの肩にぴょいと取り付いた。鋭い爪が肩にくいこむかと思ったが痛くはなかった、ただずしりとあたたかい重みを感じた。
こがらすはわたしの肩の上でしきりにわたしの顔を覗き込もうとし、わたしはくろびかりする嘴に目をつつかれそうで顔を背けてばかりいる・・・・
*
わたしは弟と車の荷台に揺られていた。車はどこともしれぬ山の中を走っている。あじわいの木が高く、見たことも無いほど高く茂って、空は一面あじさいの花で埋もれるようだった。しかし初夏というわけでもない、なぜならあじさいの真横には赤く色づいたもみじがはらはらと散っているのだから。
空色の花がそのまま空に溶けるようだとわたしは思った、
やがて空が(花が)少しずつ青の度合いを深め 紫色になり、紅のもみじにまじってくる頃に、わたしたちはようやく山頂へとたどり着いた。車を運転していたのは三人のみしらぬ男の子だったが、彼らは車を停めるとわれさきに山の上の洋館へと駆け込んでいった。わたしたちは慌てて彼らの後を追ったが、ほんの数歩の距離だというのに私も弟も彼らに追いつくことはできなかった。
その洋館の扉には チョコレート博物館 という看板がかかっていた。閉館は六時だった。時計は五時半をさしていたので、わたしたちはあわてて中に入り、あたたかいココアとチョコレートケーキを注文しテーブルに付く、あいかわらず自分が何のためにここに居るのかよくわからなかった。よくわからなかったがココアは温かい、それでもう何もかもどうでもいいような気がした。
←せめてケーキのひとつなりと・・・食べたかったな。美味しそうだったのに。
鳥籠にいろとりどりの小鳥が入っている。珍しい南国の鳥たちの、やさしいさえずり。わたしはこの宝石のような鳥のどれを持ち帰っても良いのだ。
鳥たちに目を奪われてあれこれ迷っていると、不意にがああとしわがれた声がする。ふりむくと、床の上、からすの子供がぴょんぴょんと飛び跳ねてこちらへやってこようとしている。まだ羽も生え揃っていない子供とはいえ、私の顔ほどの大きさはある。わたしは思わず数歩後じさったが、そいつは嬉しそうにがああと泣いてわたしの後を付いてまわった。親と勘違いでもして居るのか、甘えた声音で首をかしげ、そうして戸惑うわたしの肩にぴょいと取り付いた。鋭い爪が肩にくいこむかと思ったが痛くはなかった、ただずしりとあたたかい重みを感じた。
こがらすはわたしの肩の上でしきりにわたしの顔を覗き込もうとし、わたしはくろびかりする嘴に目をつつかれそうで顔を背けてばかりいる・・・・
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わたしは弟と車の荷台に揺られていた。車はどこともしれぬ山の中を走っている。あじわいの木が高く、見たことも無いほど高く茂って、空は一面あじさいの花で埋もれるようだった。しかし初夏というわけでもない、なぜならあじさいの真横には赤く色づいたもみじがはらはらと散っているのだから。
空色の花がそのまま空に溶けるようだとわたしは思った、
やがて空が(花が)少しずつ青の度合いを深め 紫色になり、紅のもみじにまじってくる頃に、わたしたちはようやく山頂へとたどり着いた。車を運転していたのは三人のみしらぬ男の子だったが、彼らは車を停めるとわれさきに山の上の洋館へと駆け込んでいった。わたしたちは慌てて彼らの後を追ったが、ほんの数歩の距離だというのに私も弟も彼らに追いつくことはできなかった。
その洋館の扉には チョコレート博物館 という看板がかかっていた。閉館は六時だった。時計は五時半をさしていたので、わたしたちはあわてて中に入り、あたたかいココアとチョコレートケーキを注文しテーブルに付く、あいかわらず自分が何のためにここに居るのかよくわからなかった。よくわからなかったがココアは温かい、それでもう何もかもどうでもいいような気がした。
←せめてケーキのひとつなりと・・・食べたかったな。美味しそうだったのに。
朝、強風にあおられた鳥の糞が斜めに弧を描いてわたしのコートにひっかかったのだった、それでうすうす今日という日への覚悟はできたつもりだったが ふと気付くとこの間作成したばかりのフェルトの白いバラモチーフピンを飛ばされていたし電車は遅延、軽い頭痛に悩まされ実にくだらないミスをやらかしmともなかなか連絡は取れず ああやはりウンの付きがウンの尽きであったのだな、と 少しく自嘲的な気分になる。
不幸なときは その不幸を嘲ってみること。
そうすると 少しだけ意趣返しできた気分になる。
*
そういえばこの間の運転手は再三確認したにも関わらず、下りるべきインターチェンジをスルーした挙句、おろおろと「すいません、ぼーっとしてまして」と言ってのけた。運転してる人がもっともしてはいけない言い訳! そのままでは山梨までノンストップなので圏央道に誘導したが、予定時刻より40分ほど余計にかかった。
まあ、高速道路をバックされるよりはマシだと思ってね。
あまりにもありえない事態に ちょっと笑えた。
不幸なときは その不幸を嘲ってみること。
そうすると 少しだけ意趣返しできた気分になる。
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そういえばこの間の運転手は再三確認したにも関わらず、下りるべきインターチェンジをスルーした挙句、おろおろと「すいません、ぼーっとしてまして」と言ってのけた。運転してる人がもっともしてはいけない言い訳! そのままでは山梨までノンストップなので圏央道に誘導したが、予定時刻より40分ほど余計にかかった。
まあ、高速道路をバックされるよりはマシだと思ってね。
あまりにもありえない事態に ちょっと笑えた。
長閑だなあ。

*
ここ数日、風も日差しも柔らかく あちこちで猫がのんびりうたたねしている陽気にしみじみ「春だなあ」と思いつつも、春はわたしの大敵なので しみじみと戦慄を感じたりもしている。
芽吹きの季節 生命の季節 とかいうけどね、生命が生き抜いていく過程ってそんなにゆめがあるわけでもない、と常々思っているの。他をおしのけ足蹴にし食い尽くす、それが生きるということ。生即是生存競争也。
だって植物の春夏の繁茂、あの勢いは正に暴力的ではないかしら。
優しい季節は、秋と冬。この、なにもかもがゆるやかに死に絶えてゆく季節がもっともやさしく美しい、とか思うわけ。ギリシャ神話でも死の神ハデスは誰よりも優しくおとなしい性質だというしね、中世ヨーロッパの伝説に出てくる死神も若く美しく優美だった。
春は怖いよ。抗えない強さがある。
自分が、発狂もしくは自殺するとしたらそれは春か夏ではないかと思っている。のりきらねば。。
*
ここ数日、風も日差しも柔らかく あちこちで猫がのんびりうたたねしている陽気にしみじみ「春だなあ」と思いつつも、春はわたしの大敵なので しみじみと戦慄を感じたりもしている。
芽吹きの季節 生命の季節 とかいうけどね、生命が生き抜いていく過程ってそんなにゆめがあるわけでもない、と常々思っているの。他をおしのけ足蹴にし食い尽くす、それが生きるということ。生即是生存競争也。
だって植物の春夏の繁茂、あの勢いは正に暴力的ではないかしら。
優しい季節は、秋と冬。この、なにもかもがゆるやかに死に絶えてゆく季節がもっともやさしく美しい、とか思うわけ。ギリシャ神話でも死の神ハデスは誰よりも優しくおとなしい性質だというしね、中世ヨーロッパの伝説に出てくる死神も若く美しく優美だった。
春は怖いよ。抗えない強さがある。
自分が、発狂もしくは自殺するとしたらそれは春か夏ではないかと思っている。のりきらねば。。