ゆめ か うつつ か
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わたしは死体の前で途方に暮れている。
前後の事情は思い出せないがどうやらこの男を殺してしまったのはわたしのように思う。夜が明ける前にこの死体をどうにかしなければならない。思い余ったわたしは、男の体をくるりとひっくり返しきぐるみのように頭から被ってみることにする。骨が少しばかりごつごつとひっかかったが入ってみると案外に着心地が良い。このフィット感、上等のカシミアコートでもこうはゆくまい。
かくしてわたしは男の姿となって明け方の街を歩き始める。男を殺したのはわたしだが、わたしにはその責任をとることができる、というのはつまりこれ以降この男の生活をそっくりそのままひきつぐことができる。償わねばならぬのは男の生命ではなく男の生活なのだ、つまりはこの男が生きていると同様に環境を保てばそれでよいのだ、人間が生きると言うのは自分のためではなく常に周囲のためなのだから。
わたしは悠然とタバコに火をつけ男の家路を急ぐ、夜明かしの言い訳を考えながら。そしてもう永久に以前の自分を思い出す事はないのだ。
前後の事情は思い出せないがどうやらこの男を殺してしまったのはわたしのように思う。夜が明ける前にこの死体をどうにかしなければならない。思い余ったわたしは、男の体をくるりとひっくり返しきぐるみのように頭から被ってみることにする。骨が少しばかりごつごつとひっかかったが入ってみると案外に着心地が良い。このフィット感、上等のカシミアコートでもこうはゆくまい。
かくしてわたしは男の姿となって明け方の街を歩き始める。男を殺したのはわたしだが、わたしにはその責任をとることができる、というのはつまりこれ以降この男の生活をそっくりそのままひきつぐことができる。償わねばならぬのは男の生命ではなく男の生活なのだ、つまりはこの男が生きていると同様に環境を保てばそれでよいのだ、人間が生きると言うのは自分のためではなく常に周囲のためなのだから。
わたしは悠然とタバコに火をつけ男の家路を急ぐ、夜明かしの言い訳を考えながら。そしてもう永久に以前の自分を思い出す事はないのだ。
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島国において、新しいものは全て海からやってくるから…だから港町は、常に新しく生き生きしているのかな。新しい力、新しい人々、新しい文化、旧いものを塗り替えて。
…海は泳ぐものでも眺めるものでもない、ただ途方も無い「力」そのもののような気がする。

*
みなとみらい。
*
お仕事についていろいろ書きたいけどちょっと特定されやすそうな職種なのでやめておく。
のんびりやっていけそうかも・と思ったのは一瞬で、実はものすげえ忙しい職場だということに一昨日くらいに気づいた。やって……いけるのかなあ……
とりあえず面白そうだからと思って選んでしまったお仕事なので遠さとかお給料とかあまり考えなかった、引越しできるくらいお金たまるのはいつなのか……
内容はそれなりに楽しいです、いまんとこ。新しいものに出会うのは楽しい。
…海は泳ぐものでも眺めるものでもない、ただ途方も無い「力」そのもののような気がする。
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お仕事についていろいろ書きたいけどちょっと特定されやすそうな職種なのでやめておく。
のんびりやっていけそうかも・と思ったのは一瞬で、実はものすげえ忙しい職場だということに一昨日くらいに気づいた。やって……いけるのかなあ……
とりあえず面白そうだからと思って選んでしまったお仕事なので遠さとかお給料とかあまり考えなかった、引越しできるくらいお金たまるのはいつなのか……
内容はそれなりに楽しいです、いまんとこ。新しいものに出会うのは楽しい。
物書きじゃ簡単すぎるし作家では意味が広すぎる、小説だけ書いてるわけでは無いから小説家でもない、文筆家じゃ固すぎるし「書く人」という意味ではライターという言葉がしっくりくるが横文字は使いたくないし、ここはひとつ文字を操る「文字遣い」という呼称はどうだろう。
*
文字って特殊なツールだなあと思う、他の芸術、音(聴覚)や絵(視覚)や料理(味覚)なんかと基本的なつくり、っていうか回路が違うんだよね、芸術が五感によって快楽を得るとすると、言語はまず脳に訴えかける…
そうだなあ、図にしてみたら
芸術→五感⇔脳
言語→脳⇔五感
って感じかな、脳と五感は共に相互作用を起こすが、その順番は異なる。
わたしがポーランド語の本を読んでも感動できないように、言語は習得的・経験的なものであって、地域によって限定されざるをえない。綺麗な絵や音、美味しい料理が誰をも感動させるのに ね。
ところでわたしが気になっているのは音や匂いや味、とりとめない流れのようなそれを言葉にとらえることは可能だろうかということだ。そうしてつらつら自分を省みるに、匂いや味ならまだ容易だろうと思う。例えば「給食に出てきたわかめごはんのしょっぱさ」「トルファンの街角でゆきずりの子供にご馳走になった蜂蜜入り氷水の仄かな甘さ」「ボルネオの屋台のエビ入りトムヤムの辛さ」と言われたらわたしはまざまざとその味を思い出す、言葉によってその記憶を開く。
こういう記憶へのアプローチ法には個人差があるだろう、どれだけ日頃それと親しんでいたのかも関わってくるし。
それで、音楽はわたしにとってあまりなじみのないものなのだと最近改めてよくわかった、オーケストラの生音を前に「なんだかきらきらした音だなあ」くらいの感想しか出てこない。もったいない。
音楽家が日々楽器を相手に練習するように、文字遣いも日々、書くことを怠ってはならない。五感も脳も修練あるのみ。
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文字って特殊なツールだなあと思う、他の芸術、音(聴覚)や絵(視覚)や料理(味覚)なんかと基本的なつくり、っていうか回路が違うんだよね、芸術が五感によって快楽を得るとすると、言語はまず脳に訴えかける…
そうだなあ、図にしてみたら
芸術→五感⇔脳
言語→脳⇔五感
って感じかな、脳と五感は共に相互作用を起こすが、その順番は異なる。
わたしがポーランド語の本を読んでも感動できないように、言語は習得的・経験的なものであって、地域によって限定されざるをえない。綺麗な絵や音、美味しい料理が誰をも感動させるのに ね。
ところでわたしが気になっているのは音や匂いや味、とりとめない流れのようなそれを言葉にとらえることは可能だろうかということだ。そうしてつらつら自分を省みるに、匂いや味ならまだ容易だろうと思う。例えば「給食に出てきたわかめごはんのしょっぱさ」「トルファンの街角でゆきずりの子供にご馳走になった蜂蜜入り氷水の仄かな甘さ」「ボルネオの屋台のエビ入りトムヤムの辛さ」と言われたらわたしはまざまざとその味を思い出す、言葉によってその記憶を開く。
こういう記憶へのアプローチ法には個人差があるだろう、どれだけ日頃それと親しんでいたのかも関わってくるし。
それで、音楽はわたしにとってあまりなじみのないものなのだと最近改めてよくわかった、オーケストラの生音を前に「なんだかきらきらした音だなあ」くらいの感想しか出てこない。もったいない。
音楽家が日々楽器を相手に練習するように、文字遣いも日々、書くことを怠ってはならない。五感も脳も修練あるのみ。
ところで犬死って犬に失礼だと思う。
*
うちの犬が今日死んだ。
だいぶ前から衰弱していたし、今年の冬は越せないだろうと皆で話し合ってたのであまりショックは無い。というよりむしろあたしは十年前、この犬がうちに来たての頃・犬を飼うことをかたくなに反対しており、でもそんなのあたしくらいで、だって誰も現実を見ようとしないもんだから……やがて飼いきれなくなるのが目に見えてるのに……そのため犬の名前を呼ばずずっと「いぬ」と呼んでいたくらいで、だからあたしの予測どおりやがて飼い主である姉が仕事で面倒をみきれなくなった際にも「ほおらね」と笑ってたくらいだった、ひでえ。
しかしその頃になってようやく犬がかわいそうな気になってきて散歩やら餌やらの世話をするようになって、実際あたしは飼い主(買い主)である姉よりはずいぶん犬に好かれていたと思う、「いぬ!」と呼ぶと「わん!」と答えて尻尾を振ってくれるくらいには。
野菜好きのえらく意地汚い犬で、畑を散歩するとひとさまのトマトを勝手に食べようとしたし柿の木が大好きだった、綱が外れても勝手に散歩にもゆかず、散歩の時間までのん気にうちの庭で寝ていた、晩年は胎児のようにまるくなってひなたぼっこばかりしてて「とぐろをまいてる」とあたしは笑った、冬に車で山小屋に連れて行ったときは一足ごとに雪に埋まってそれでも走るのをやめなかった、炬燵の上の栗饅頭をセロハンごと食べられたし車の中でトイレに行きたくなるとちゃんと鳴いて報せた、途方もなくバカでお手のひとつも満足にできなかったけどそういうところはしっかりしていた。
小さいとき夜鳴きが留らなくて一晩中だっこしてやったことがある、その時のことを覚えてるのかあたしの足の間が大好きでよくひざに乗りたがってた、あたしは二年ほど前から犬アレルギーになってしまって触ることすらできないのに、撫でてもらいたがって仰向けに寝転がっていつまでも、あたしを見ていた、てんかん気質で何度か発作を起こしてるらしいけどあたしと一緒のときは一度も発作を起こさなかった。
家族みんな出かけてるとき一緒にワインを飲んだこともある、いぬとあたしは一生理解しあえなかったけどあたしはいぬの事はそれなりに好きだったしいぬのほうも多分あたしのことを嫌っては無かった気がする。
Gが来るとすごい吼えてて、だからあたしはGがインターホン押す前に来訪がわかったくらいだったなあ。
*
帰宅したら母と弟がぼそぼそ話し合ってて、たった今ダンボール箱に納めて来たというので外に出てみた、箱を空けたら眼がうつろに見開かれていたので閉じようと思って触ったら目を細めた、撫でて名前を呼ぶと少しだけ息を吐き出してぐるぐる喉を鳴らした、それっきりだらりと体の力を抜いて動かなくなった。
朝、餌を食べないと言うので小屋を覗いたらぷるぷると震えてうずくまっていた、それから三十分おきに見ていた母や仕事を早退してきた父はさっき息を引き取ったばかりなのに、と驚いていた。
「お前の帰りを待ってたんだねえ」とまで言われた。
下手な物語じゃあるまいし、と思ったが、でも、いぬはあたしの帰りを待ってたんだとあたしも思う。
犬は人間が大好きで大好きで大好きで大好きでしょうがない、っていつも思ってるんだなあってあたしはいぬを見てて思った。歴史上、犬ってのは色々、南極やら宇宙やらいろんなところに置き去りにされたり危険なことをやらされてるけど、でも、やっぱり犬は人間のことが大好きで大好きで大好きで大好きのままで、そんなふうにひとを好きで、ひとをゆるして生きたり死んだりできたらいいなあと思う。
なあ、つながれたまま、おまえ、たいへんだったよな。
またどこかで会ったら撫でてやらんこともないと言っておくよ。
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うちの犬が今日死んだ。
だいぶ前から衰弱していたし、今年の冬は越せないだろうと皆で話し合ってたのであまりショックは無い。というよりむしろあたしは十年前、この犬がうちに来たての頃・犬を飼うことをかたくなに反対しており、でもそんなのあたしくらいで、だって誰も現実を見ようとしないもんだから……やがて飼いきれなくなるのが目に見えてるのに……そのため犬の名前を呼ばずずっと「いぬ」と呼んでいたくらいで、だからあたしの予測どおりやがて飼い主である姉が仕事で面倒をみきれなくなった際にも「ほおらね」と笑ってたくらいだった、ひでえ。
しかしその頃になってようやく犬がかわいそうな気になってきて散歩やら餌やらの世話をするようになって、実際あたしは飼い主(買い主)である姉よりはずいぶん犬に好かれていたと思う、「いぬ!」と呼ぶと「わん!」と答えて尻尾を振ってくれるくらいには。
野菜好きのえらく意地汚い犬で、畑を散歩するとひとさまのトマトを勝手に食べようとしたし柿の木が大好きだった、綱が外れても勝手に散歩にもゆかず、散歩の時間までのん気にうちの庭で寝ていた、晩年は胎児のようにまるくなってひなたぼっこばかりしてて「とぐろをまいてる」とあたしは笑った、冬に車で山小屋に連れて行ったときは一足ごとに雪に埋まってそれでも走るのをやめなかった、炬燵の上の栗饅頭をセロハンごと食べられたし車の中でトイレに行きたくなるとちゃんと鳴いて報せた、途方もなくバカでお手のひとつも満足にできなかったけどそういうところはしっかりしていた。
小さいとき夜鳴きが留らなくて一晩中だっこしてやったことがある、その時のことを覚えてるのかあたしの足の間が大好きでよくひざに乗りたがってた、あたしは二年ほど前から犬アレルギーになってしまって触ることすらできないのに、撫でてもらいたがって仰向けに寝転がっていつまでも、あたしを見ていた、てんかん気質で何度か発作を起こしてるらしいけどあたしと一緒のときは一度も発作を起こさなかった。
家族みんな出かけてるとき一緒にワインを飲んだこともある、いぬとあたしは一生理解しあえなかったけどあたしはいぬの事はそれなりに好きだったしいぬのほうも多分あたしのことを嫌っては無かった気がする。
Gが来るとすごい吼えてて、だからあたしはGがインターホン押す前に来訪がわかったくらいだったなあ。
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帰宅したら母と弟がぼそぼそ話し合ってて、たった今ダンボール箱に納めて来たというので外に出てみた、箱を空けたら眼がうつろに見開かれていたので閉じようと思って触ったら目を細めた、撫でて名前を呼ぶと少しだけ息を吐き出してぐるぐる喉を鳴らした、それっきりだらりと体の力を抜いて動かなくなった。
朝、餌を食べないと言うので小屋を覗いたらぷるぷると震えてうずくまっていた、それから三十分おきに見ていた母や仕事を早退してきた父はさっき息を引き取ったばかりなのに、と驚いていた。
「お前の帰りを待ってたんだねえ」とまで言われた。
下手な物語じゃあるまいし、と思ったが、でも、いぬはあたしの帰りを待ってたんだとあたしも思う。
犬は人間が大好きで大好きで大好きで大好きでしょうがない、っていつも思ってるんだなあってあたしはいぬを見てて思った。歴史上、犬ってのは色々、南極やら宇宙やらいろんなところに置き去りにされたり危険なことをやらされてるけど、でも、やっぱり犬は人間のことが大好きで大好きで大好きで大好きのままで、そんなふうにひとを好きで、ひとをゆるして生きたり死んだりできたらいいなあと思う。
なあ、つながれたまま、おまえ、たいへんだったよな。
またどこかで会ったら撫でてやらんこともないと言っておくよ。