ゆめ か うつつ か
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今年こそ花粉症になってしまった、と思い続けて十年近くなるので、もはや自分が真に花粉症なのかそうでないかの区別がつかない。毎年毎年「今年こそヤバイ」と思うということは、すなわち毎年たいして花粉症に悩まされるでもなく春をやり過ごしているのだろうとは思う。
最近の新聞に、「花粉症は日本人の標準体質のひとつになりつつある」という記事があって、日本人の健康基準もついにここまできたかと感慨深くなった。わたしがこどものころ、アレルギーはまだマイノリティなほうだったと思う。数年前に中学校で実習したとき、アレルギーゆえ当然のように給食を摂食拒否する生徒の多さに驚いた。給食センターもこれでは大変だろう。
試したことはないので真偽のほどは知らないが、花粉症やアレルギーの有効な治療法として「体内に寄生虫を飼う」というやつがあった。アレルギーなんてしょせんは免疫の暴走だから、さしあたり体内に明確な〈敵〉があれば、免疫も正常に働いてくれるのかもしれない。昔の、あるいは現在でも、衛生管理されていない地域の人には花粉症は居ないというし、虫も寄り付けないくらいおきれいな身体だからこそ花粉症になるのかもしれない。
そうなると、もう何が健康で何が不健康かわからない。いわばわたしたちは、過剰に健康なんだろう。
最近の新聞に、「花粉症は日本人の標準体質のひとつになりつつある」という記事があって、日本人の健康基準もついにここまできたかと感慨深くなった。わたしがこどものころ、アレルギーはまだマイノリティなほうだったと思う。数年前に中学校で実習したとき、アレルギーゆえ当然のように給食を摂食拒否する生徒の多さに驚いた。給食センターもこれでは大変だろう。
試したことはないので真偽のほどは知らないが、花粉症やアレルギーの有効な治療法として「体内に寄生虫を飼う」というやつがあった。アレルギーなんてしょせんは免疫の暴走だから、さしあたり体内に明確な〈敵〉があれば、免疫も正常に働いてくれるのかもしれない。昔の、あるいは現在でも、衛生管理されていない地域の人には花粉症は居ないというし、虫も寄り付けないくらいおきれいな身体だからこそ花粉症になるのかもしれない。
そうなると、もう何が健康で何が不健康かわからない。いわばわたしたちは、過剰に健康なんだろう。
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どんな服にも合うようなベーシックな色と形の、たくさん荷物が入って使いやすい大きめお仕事用バッグが長年欲しくて、そのくせ探しあぐねていたのだが(なにせステキなバッグが多すぎて本命をひとつに決められない)、最近ようやくどれひとつまじめに探すかとあちらこちら、歩くようになった。
そしてこの前ついにおいせタンで妥協できるバッグに出会い、念のためそれでもひと歩きしたのちに買う気満々で売り場に行ったら目の前で見知らぬひとに買われている最中だった。。セール品だったのでもう入荷はしない一点もの、なんかものすごい失意と落胆を味わった。ドナドナのようにそのかばんを見送った。
で mに慰められつつ、あてもなくふらふら歩いていたらいよいよなんか悔しくなったので
目に付いた一番最初のよいと思ったバッグを買ってやった!!!
ギャルリー・ヴィーのグレーキャンバス地バッグ。持ち手は牛革。とにかくめっちゃ入る、でも軽い。布地だしね。ぶっきらぼうなようでいて優美なフォルムが気に入った。そして納得、やっぱ買い物って縁だわ。今はこれをものすごい気に入ってるのでむしろおいせタンのバッグは買えなくてよかったと思っている。
名前はバッコちゃん。バッグ+子、そして跳梁跋扈のバッコ。
そしてこの前ついにおいせタンで妥協できるバッグに出会い、念のためそれでもひと歩きしたのちに買う気満々で売り場に行ったら目の前で見知らぬひとに買われている最中だった。。セール品だったのでもう入荷はしない一点もの、なんかものすごい失意と落胆を味わった。ドナドナのようにそのかばんを見送った。
で mに慰められつつ、あてもなくふらふら歩いていたらいよいよなんか悔しくなったので
ギャルリー・ヴィーのグレーキャンバス地バッグ。持ち手は牛革。とにかくめっちゃ入る、でも軽い。布地だしね。ぶっきらぼうなようでいて優美なフォルムが気に入った。そして納得、やっぱ買い物って縁だわ。今はこれをものすごい気に入ってるのでむしろおいせタンのバッグは買えなくてよかったと思っている。
名前はバッコちゃん。バッグ+子、そして跳梁跋扈のバッコ。
折口信夫の歌論を読んで思ったことなどをとりとめもなく。。
*
文学において、愛の恋の折句の掛詞の、小手先の技術に頼るのは二流。さりとて描写のみでは素朴すぎる、甘ちょろい情感をギリギリまで排除して残る微かな余韻をよしとする。描ききらない良さ。
和歌、俳諧、茶の湯もそうかな。日本人特有だよね、はっきり言わない。もたつく、たゆたう、曖昧な。
*
文学と哲学の違いは、生きる哀しみへの、反応の違いではないかしら。文学は哀しみをありのまま書き出し眺める、写生した絵を額縁に入れて飾るみたいに。哲学は違う。哲学は哀しみを解剖する。丹念に腑分けしてひとつひとつ分析し、ホルマリンの瓶に入れ分類する。
わたしは文学少女ではなく、哲学少女になりたかった。
*
文学において、愛の恋の折句の掛詞の、小手先の技術に頼るのは二流。さりとて描写のみでは素朴すぎる、甘ちょろい情感をギリギリまで排除して残る微かな余韻をよしとする。描ききらない良さ。
和歌、俳諧、茶の湯もそうかな。日本人特有だよね、はっきり言わない。もたつく、たゆたう、曖昧な。
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文学と哲学の違いは、生きる哀しみへの、反応の違いではないかしら。文学は哀しみをありのまま書き出し眺める、写生した絵を額縁に入れて飾るみたいに。哲学は違う。哲学は哀しみを解剖する。丹念に腑分けしてひとつひとつ分析し、ホルマリンの瓶に入れ分類する。
わたしは文学少女ではなく、哲学少女になりたかった。
どこからか、花のような、香料のような、えもいえわれぬよい香りがしている。
香りをたどると、路傍の人だかりに出くわした。覗いてみると、背が高くどこか高貴な様子の老人が、大きな鍋を火にかけている。いくつもの壺から自在に粉や液体を取り出し鍋に加える老人の後ろには、粗末な身なりの青年が神妙に目を瞑って控えていて、とんと仙人とその弟子といった風情。「あれは仙丹を練っているのだそうだ」と訳知り顔の男が囁き、わたしは感心しながらその鍋と老人を見つめる。
しかし芳香は次第に悪臭となり、老人は焦ったように火をかきたてるが、鍋は焦げ付くようなにおいを放つばかり。と、それまで老人の後ろで慎ましく控えていた青年が、あくびをしながら立ち上がった。閉じていた眼が開かれ炎のように炯炯と光り、見る間に身体がまばゆい光に包まれる。青年は笑いながらつま先でとんと地を蹴った。途端に鍋も壺も、青年自身も地の底に呑まれてゆく。老人があわれっぽく地面にひざまずき、後には高らかに笑う青年の声だけが残った。
「おい間抜け、仙丹を作り損なったのがわからぬか。お前は仙人にはなれぬ。一生を人として過ごすがよい」