ゆめ か うつつ か
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●古代中国では、高貴な人が死ぬと、その口に蝉のかたちに刻んだ玉をふくませたという。蝉は人の魂を象徴していた。羽化登仙という言葉があるが、存外仙人に生える羽とは鳥のそれではなく、蝉のように薄く透き通ったものかもしれない
●欧州では蝉は日本ほどポピュラーでなく、真夏に日本を訪れたドイツ人音楽家が、蝉が鈴なりに大合唱を奏でている木を見て「あの音が鳴る木を持って帰りたい」と言った話を本で読んだ。なんか可愛い
●昆虫食のなかでも蝉はわりとよく食されている。栄養価も高く、幼虫なら佃煮、成虫ならまる焼などにするらしい。昆虫食というと野蛮・未開・貧困などのイメージがあるが、実はアジアやアフリカのみならず、アメリカのある州でも、蝉が大量発生する年には、からっと素揚げにして食ってしまうらしい。ま、確かに、生で食うのでなければ、ハンバーガーより蝉揚げのほうが健康的な気がする
●蝉はカメムシの仲間(!)
●欧州では蝉は日本ほどポピュラーでなく、真夏に日本を訪れたドイツ人音楽家が、蝉が鈴なりに大合唱を奏でている木を見て「あの音が鳴る木を持って帰りたい」と言った話を本で読んだ。なんか可愛い
●昆虫食のなかでも蝉はわりとよく食されている。栄養価も高く、幼虫なら佃煮、成虫ならまる焼などにするらしい。昆虫食というと野蛮・未開・貧困などのイメージがあるが、実はアジアやアフリカのみならず、アメリカのある州でも、蝉が大量発生する年には、からっと素揚げにして食ってしまうらしい。ま、確かに、生で食うのでなければ、ハンバーガーより蝉揚げのほうが健康的な気がする
●蝉はカメムシの仲間(!)
真夜中、家路についてやれやれと扉に手をかけたとたん、それまで無言で張り付いていた蝉がけたたましく叫びながら体当たりしてきて、心臓が口から飛び出そうなくらいびっくりした。不意打ちなんだもんな。
蝉時雨とはよく言うが、ほんとに蝉が時雨のようにばちばちと自分の体に当たってくるとは思わなんだ。
*
ところで漢詩や漢文を読んでいると、ときたま女性の美しさを讃える「蝉娟」という言葉が見られる。三國志にも貂蝉という有名な美女が出てくるとおり、この蝉という字には、もともと「美しい」という意味があるらしい。いったいに漢語では蛾眉、蜂腰など美女を虫にたとえる例があるが、しかし、蝉のように不恰好で土色にすすけた様態のどこが美しいのだろう、などと考え、道端に転がる蝉の死骸を見てなるほどと思った。種類にもよるのだろうが、あの、葉脈のように透き通った羽、硝子細工めいてあわれに美しい羽を賛美しているのなら、納得。
或いは短命の儚さを美女の儚さにたとえたか。
蝉時雨とはよく言うが、ほんとに蝉が時雨のようにばちばちと自分の体に当たってくるとは思わなんだ。
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ところで漢詩や漢文を読んでいると、ときたま女性の美しさを讃える「蝉娟」という言葉が見られる。三國志にも貂蝉という有名な美女が出てくるとおり、この蝉という字には、もともと「美しい」という意味があるらしい。いったいに漢語では蛾眉、蜂腰など美女を虫にたとえる例があるが、しかし、蝉のように不恰好で土色にすすけた様態のどこが美しいのだろう、などと考え、道端に転がる蝉の死骸を見てなるほどと思った。種類にもよるのだろうが、あの、葉脈のように透き通った羽、硝子細工めいてあわれに美しい羽を賛美しているのなら、納得。
或いは短命の儚さを美女の儚さにたとえたか。
夏の三大イベントといえば、お盆・音楽フェス・オタクの祭典コミケ。なぜ同時期に集中しているのか、考えるまでもなく、先ずお盆ありきなのだと覚る。
大人になると、カレンダーの公休以外に休めるのは盆暮れ正月、冠婚葬祭くらいがいいところ。お盆休みというのはカレンダーにはないけれど、農繁期が一段落した時期の祭そして祀りとして、いまだ根強い慣習なのだろう。
その昔、民俗学の講義で、正月/お盆は死者のたましい=先祖の霊が神となり山と田を行き来する、その節目を労い慰める儀式だと習った覚えがある。慰める魂のあらばこそ、故郷という言葉すら実感の薄いわたしには、盆とて何ら変わらぬケであり日常。勿論フェスやコミケもわたしには縁が薄く、だからこそ考えた。
お盆、フェス、コミケ。この三つに共通しているのは、いずれも「精神的な慰め」の部分ではないかな。みな現実には存在しないもの、目に見えぬもの、心を癒す儀式を求めている。
8月はそういう季節、そういう、渇き飢えた魂の集う季節なのか。
大人になると、カレンダーの公休以外に休めるのは盆暮れ正月、冠婚葬祭くらいがいいところ。お盆休みというのはカレンダーにはないけれど、農繁期が一段落した時期の祭そして祀りとして、いまだ根強い慣習なのだろう。
その昔、民俗学の講義で、正月/お盆は死者のたましい=先祖の霊が神となり山と田を行き来する、その節目を労い慰める儀式だと習った覚えがある。慰める魂のあらばこそ、故郷という言葉すら実感の薄いわたしには、盆とて何ら変わらぬケであり日常。勿論フェスやコミケもわたしには縁が薄く、だからこそ考えた。
お盆、フェス、コミケ。この三つに共通しているのは、いずれも「精神的な慰め」の部分ではないかな。みな現実には存在しないもの、目に見えぬもの、心を癒す儀式を求めている。
8月はそういう季節、そういう、渇き飢えた魂の集う季節なのか。