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ゆめ か うつつ か
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O津のいじめ事件で、連日いろんな報道がなされてるけど、動画サイトに加害者の情報がことごとく流出しているのは大変驚いた。





その動画を作った人の趣旨としては、国や警察がまったく役に立たないことへの抗議のつもりだったかもしれない。今、日本のそこかしこである「いじめ」の抑止を狙ったのかもしれない。ただただ自殺するしかなかった子の鎮魂の意があったのかもしれない。

その思いは間違っては居ない。

でも正直、ものすごく、心が痛んだ。

加害者は、こどもとはいえ決してゆるされないことをしたと思う。おとなである教師の罪はなおさらだ。でももっと言えば、隠蔽・放置に走った教育委員会や警察の罪はさらに重く、ひいては今の日本の教育(あえて曖昧にしておく)が
もっとも悪い、というのがわたしの感想。

こどもはなぜ守られているかというと、正式な人間じゃないからだ。正式な人間でない=被保護下にあるということ、正しい判断ができない、未熟な生物であるということ、それはつまり弱者と言い換えもできる。判断力も知的能力も共感力も低い、弱者。

だから保護し、教育する。

ゆえに、今回のことで一番責任があるのは大人だ。

はっきりいって いじめはなくならない。

どんな生物でも、弱者を排他し虐げる。それは、生物の目的が生存と繁栄だから。弱肉強食、弱い生き物は生きる資格がないのだ。それが動物の世界。

でも人間は違う。人間は、ゆるし、助け合い、愛し合うことができる。それは素晴らしい人間の特徴だ。

他を虐げるのは、強い生き物ではない。強い生き物は他を虐げる必要がない。たいがいの生き物は、弱いから、自分より弱いものを探そうとする。そう考えると、苛めるほうも弱いのだ。苛めなければならないほど、弱い。

だからこそ教師が最後まで被害者に寄り添わなければならない、いじめられていても、誰かが自分の味方でいてくれたら、希望が持てたら、最悪の事態にはならないはずだから。

もし、この情報流出に小気味よさを感じている人がいたら、そのひとは自分のなかに「いじわるな気持ち」があることを肯定したほうがいい。けしてその思いを「正義感」と混同してはいけない。この事件で、本当に加害者側を呪うことが出来るのは、当事者だけだ。当事者というのはつまり被害者と、被害者の親族と、そして今現在いじめを受けているひとだ。


それ以外は部外者。


だって今日の夜眠って明日起きたらたぶんこの事件のことなんて忘れているでしょう、学校、テスト、部活、仕事、ご飯、トイレ、恋人、そんなことでこの事件のことは日常の雑多さにまぎれるでしょう。この事件について夜も眠れないくらい悩んだ、自分は自殺した生徒に代わって死んでやってもいい、って思えるような人はいないんだ。

そういうひとは、この事件について語る権利は、本質的にないんだ。

そう思うんだけど、周囲のひとはみんな「さらされて当然」みたいなことをゆっていて、ああわたしがおかしいのかしら、と不安になる。

わたしがいいたいのはこれだけ、ゆるせること と あいすること を大切になさい、と いうこと。




 











 

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