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……と、先だって読んだ塚本クニオ氏の小説にあり、まるきりわたしの夫婦観だなあと思った。
もすこし言えば、家族や友情、恋人だって孤独の連帯だろう。
昔わたしは、愛するひとができたなら寂しくなくなるのではないか、と期待していた。実際は、孤独と愛は無関係で、それらは全く別の問題だ。ひとはみな分厚いガラスの瓶に閉じ込められ大海をさまよっているようなもので、瓶から出たら死んでしまうので、人々はガラスを通してささやかに交感しあうだけ。
人間は解りあえない。
愛の正体は世間でよく思い込まれているようなうるわしいもんでなく、もっと殺伐とした、この気の狂いそうな寂しさを分かちあえないと知っていて、それでも愛する、その覚悟そのものにほかならない。
「転勤族っているじゃない、全国あちこち引っ越して回る。あれ、ああいうのわたしは経験無いんだよね、引越しだって大人になってから留学したりなんだりでようやく二度ほど、しかも常に本拠地は自宅。生まれてからずーっと自宅。親父が公務員で転勤無かったからね、ずっと地元で生きてきて、なんとなく学校も就職も自宅から通えるところでずっと考えていた。大学時代、地方出身者の友達はみんな当然のように東京以外も視野に入れて就職を考えていて、そういう彼らをオトナだなーって思ってたけど、違くて、ほんとはわたしがコドモすぎたのね。オトナだなーっていうのは、つまり彼らは『世界のどこに行っても自分の居場所をそこに作り上げるぞ』っていう覚悟があるってことじゃない? わたしはそういうところ何かどこか甘い、覚悟がない。
渋谷だってハラジュクだって行こうと思えば毎日だっていける、手の届くとこにあるけどでも別に行かなきゃいけないわけじゃないし第一あの街のコードに準じるのめんどくさいから全然足を踏み入れない、この辺に居る昔からの友達にはそういう子が多くて、オシャレにさほど、興味がない・・・・・・だって東京だからって『オシャレ』じゃなきゃいけないわけではないしね、がんばらない、がんばりたくないんだ。地方から来たひとのほうがセンスがよくてオシャレで、自分の無頓着さにときおり恥ずかしくなったりする、それは無論個人の性格にもよるだろうけど、根本のアイデンティティ形成の過程においてそういう地方格差ならぬ中央格差、中央付近に居ることによって欠落してしまう部分があるんだなって思う。
つまりハングリー精神っていうか、がんばって中央に出て、都会人になるぜ! っていう意気込みがわたし含め大都市近郊の人々には薄い、ような気がするのよね」
と いうわけで最近の風呂の友はもっぱらこれらの耐水性本なんだけど、何冊か読むうちに、この本の意外な欠点を発見した。それは、風呂で途中まで読み、さて風呂上りに続きを読もうとするとびしょびしょなので丹念に拭わなければならないという点だ。途中で止めておいて続きは後日にすればいいのかもしれないが、だってだって面白いんだもん!
●選択美術で木切れから彫り上げたサボテンダー(こんなんで5をくれた愉快な学校だった)。これの捨て方がよくわからない。木彫りなので燃えるゴミでもよいのかもしれないが、トゲ部分が相当に鋭利なので、下手したら危険物。燃やすのが一番かな、供養にもなるし。
●マレーシアで買ったイスラムのお守り。そのまま捨てるのも気が引けるし、日本の社寺でに持ってくのも違うような気がする。
●墜落したての某チャイナ国内線に搭乗した際、乗客全員にサービスで配られた飛行機模型。この模型を見る度に、離陸の間中静まり返っていた機内や、中国人にしては丁寧すぎるフライトアテンダント、着陸した時の拍手などをまざまざと思い出せる。