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残り二日はセンター試験で図書館も使えないしもうほんとに手持ちの文献をどうにかやりくりするしかない。今日が最後と思ってG大の閉館ギリギリに駆け込んで文献とってきたけど、数年ぶりにG大行ったのにろくろく遊んでもこれなかった。
目下、地味すぎる作業で死にそう…自分の性格がむちゃくちゃアバウトなのが恨めしい…出典の号数チェックとか、本論各段階でやっとくべきなのに軽い気持ちで後回しにしたのが・本文直したら年表にも反映させなきゃいけないしなー。あと未入手文献のチェックもしてなくて自分をのろいそうになった。この作業だけで二日なんてかるく飛ぶんじゃねえの?ページも確認して注に反映させなきゃ…この作業を怠ったがゆえに卒論ではひどく恥ずかしい思いをした。あまりにも杜撰なんだな。研究てのは検証性が命、他人による再現ができなくてはならない、誰が読んでもそうなるっていうものにつくらなきゃいけないから引用とか注はことさら神経使う。研究において形式ってのはほんとーに大事で、そこが杜撰だと中身も信用してもらえないんだな。
でも・あたしは・そういう地道な作業がもっとも苦手なんだああああああ!!
吼えたらすっきりした。作業に戻る。
↑お気づきの方もおられるかと思いますが提出までのカウントダウンです。あと四日。まさにまな鯉(まな板の上の鯉)の心境。
そろそろ提出の様式を考えなければと思って昨日御茶ノ水行くついでに丸善でファイル買ってきた。三部提出なんだよね…300枚ちかい印刷とかの手間考えたら前日までには済ませておきたいのだけど、とりあえずこの仮住まいにはプリンターが無いのでどうしようかと。学校の図書館で印刷しようと考えていたんだけど明日から図書館が長期休館に入るのだった…しまった…実家しかないのかな…インクと紙を都合しておかなきゃな…
で まだ結論終わってないと。
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自分の問題意識をつきつめていくと「日本人とは何か」っていう問題に繋がるんだなあと最近やっと分かってきた。自分とは何かってことにも繋がるんだけど…「日本」という国のルールに従って生きてることが日本人であることなら、そのルールはどうやって決まってるのか、「日本」って何か、そういうことを見つめたいんだな。あたしが受けてきた教育は全体的に、そんなこと考えなくていいよ、考えちゃいけないよ、っていうモノだったから、なかなか、気づくことはできなかったけど…
この問題に向き合うのは正直しんどい。知れば知るほどイヤになるし…そういうやりきれなさが極端な左とか右に向いたりする気持ちも分かる。でももうそろそろ別の道を模索できないもんかしらって思うんだよね。そこを脱しないと日本は前に進めないんだけど、完全に脱するためにはまず全てをきちんと完璧に把握する必要があって、その部分で足踏みしてる感じなんだろな。云うだけならタダ。
何をそんなに終わらせてしまいたいのかよく分からないけど最近流行ってるものにはやけに終末的な題材が多くて、終末論なんて二千年以上前から定期的流行をみているけれど神は降臨したことないし、核戦争は起きないし宇宙人は襲来しないし日本は沈没しないし世界が終わることはない、新しい世界がはじまることは絶対にない。今が続いていくことを認めなければ先にある未来を構想することはできないのに・・・
全部一から新しく再生するほうがはるかにラクだからね。
ちなみに最近流行ってるものの他のひとつとして懐古趣味がある。どうしてもまっすぐ前を向くことができないのはやっぱり、そういう問題に向き合うのがしんどいからだろう。
余裕あると思ってたけど思ったより字数なかった。本文五万・文献年表合わせて二万で、分量的にはちょうどいいのかな。長すぎると嫌がられるしな…でもまだ結論終わってなかったり。序章もうちょっといじらなきゃダメだなコレ…
最後のほう書いてるうちに、感慨深くなっちゃった。結局、この(あたしが研究してる)人、自分の理想も夢も財産も全て、跡形も無く消えてしまうんだよね。故郷まで消失しちゃうんだよね。植民地生まれだから。早死にするしね。そんであたしが研究しようと思うまでほとんど注目もされてこなかった、存在自体認められてもこなかった、それってなんか切ない通り越してもう 惨い。
たぶんでもそういう人は他にもたくさんいるしあたしだってそうやって消えていくのだろう。
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人間が言葉を持っているのは自分の意思を伝えるためで、対話的動物ってアレ誰の言葉だっけ…言葉によって人は理解し合える、それはとても美しいことで、だからチカラに訴えた時点で実は、人間が人間であること その最大の美点 を放棄している…ケンカであれテロであれ、暴力を行使するっていうのは愚かで醜い。アイヌ語でウコチャランケ、だっけな、争いごとを徹底的な話し合いで解決すること。
あたしは、昔、言葉さえ通じれば誰とでも理解しあえると思って留学までした、よのなかそんなに甘くないことはそのとき知って、ある人から「そんな考えは棄てなさい」と根気よく諭されてあたしは自分を恥じた、さすがに今はもうそんなに簡単なことではないって分かってるけどでも心の奥、根底の部分ではまだそう思ってる、誰とでも 誰でも理解しあえると信じている、信じている自分を幼いと思うけどでもたぶんその幼さはあたしの原点だからもう恥じたりはしない。
伝えたいから書く。
結論部の前に論文全部見直し…ってやってたらなんか今更のように文献漏れが・うわあめんどくさいなまた都立図書館かコレ…そして引用部分の照らし合わせ&旧かな変更がめんどくさい。めーんーどーくーさーいー・そうやって後回しにしていたことが今全て一気に降りかかってきた…うう。そりゃそうだねあたりまえなんだけど、でもやりたくないーやらなきゃ終わらないー。注もチェックして、資料も作って…とかやってたらやっぱりなんかどんどん書けない気分になってきた。ここ一週間ほど、絶望と希望の間を往復しすぎて自分の心の動きについていけなくなって、だからもうそういった感情の部分はぜんぶスルーしてたんだけど・ちょっと緩みかけたところにまた、クるとは、思わなかった。
どんなにめんどうでも大変でもくるしくてもつらくても・自力で這い上がるしか、ないのよね。誰も助けてなんてくれないし誰にも助けてなんてもらえない。今日眠って明日目覚めたら違うとこにいました、なんて…………二回ほどあったな…………夢の中でと記憶喪失になったとき。でも結局戻ってくるのは現実だった、最終的にいつだって戻るべきは現実であって、現実の前にそんな非日常の体験なんて足かせにしかならない。プラトンの洞窟のたとえじゃないけどいつだって穴の中でもがいていてひかりなんて見えない、見えたとしても光なんて闇を際立たせるものでしかない、あたしは最初から最後までひとりで、ずっとひとりで、永遠にひとりだ。知ってるけど何度でも、繰り返す。そのことに気づいた当初は気が狂いそうなほどさみしかったけど今はそうでもない、ひとりであるのはひとりではないと知ってからは。
あたしには怖い乗り物っていうのがいくつかあって、飛行機とかジェットコースターとか「空飛ぶ乗り物系」のものは大丈夫なんだけど、海、水の乗り物はどうも、いただけない…
船はまだしも、絶対、金輪際、乗りたくないのは潜水艦。昔、潜水艦が座礁して浮上できなくなって、船員がもがきくるしんで窒息死していった話を読んだことがあって…空気が無くなる恐怖のいいしれなさ。あと海難事故は恐ろしい。同じ人肉モノでも、『野火』とか「生きる」よりも『ひかりごけ』『海神丸』のほうが絶対怖いもん。
大体 海って怖い。あたしは、海の水って大きな生命体にちかい気がしていて、海の水に触れるときはいつも ナマのものに触る気持ち悪さを感じる、そっから自分が融けていきそうなんだよね、性交にちかいナマナマしさっていうか(大体性交だって相当にグロテスクな行為なのだけど)、生理的にダメ。水死だけはしたくない。海より砂漠の志向。
でもそういう実体を排除した上での、観念的な海はとても好きだ。きらきら光る波を遠くから眺めたり海に落ちる夕陽を見たり、白く水脈をひく航跡を追ったり…
昔、ニ週間ほど船旅したときも、甲板でぶらぶら風を受けてるのが好きだった。東シナ海がちょう荒れていてどうにもこうにも、歩くことすらできなくなったときには船の底に降りて床に抱きついて波の動きを追っていたけど、あのときにも海と一体化させられるような気持ち悪さを感じたなあ。
あのときは同乗した人たちのほとんどが船酔いで食事に出てこれなくて、あたしは三人前くらいの食事を平らげた覚えがある。客船の食事旨かったんだ…毎回コース料理なんだ…船は好きじゃないけど強いほうだ、その後韓国で嵐のチェジュドを出港したときもひとりだけけろっとしてた覚えがある。ここ数年乗ってないから今はどうかわかんないけど…最近電車にすら酔ってるからな…新しい中央線車両の、いわゆる「新品」の匂いが気持ち悪くてダメ。