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「へえ? 皮ごと、まるごといった方が食べやすくないのかなぁ」
「葡萄とか蜜柑の皮、むいて食べた方が美味しいのと一緒じゃない? 皮って栄養無いし」
*
納得。わたしたちだって牛や豚の、肉は食べても皮は食べないし、魚を食べるときもウロコをひくもんね。皮膚はいわばバリアそのもの。人間は、生まれながらにやわらかくてあたたかい鎧を持っている。
・・・・・・・「絆」っていう言葉は好きじゃない。英語でいうなら「ヒューマン・ボンデージ」、拘束するもの。縛るもの。窮屈なもの。都市化した社会に欠けているもの。
しかしてムラにはムラで、ムラ社会、「村八分」なんていうことばがある。
街でも村でもどっちでもいいけど、基本的に、閉じた思考はよろしくないと思っている、行き場のない思いは鬱屈するだけだ。それなら受け入れたほうがどれだけましだろう。柔軟なほうが傷は少ないのは肉体だけではないのだから。
わたしは友人の引越しを手伝いに来ている。友人は女流画家だ。無機質な部屋には彼女の絵が溢れ、まるで一個の展覧会を片付けにきているような錯覚に囚われる。
「気に入った絵があったら持っていって」と言うので、小さな額に入った木筆画をもらうことにした。尻尾のある悪魔を描いた、どこかユーモラスなスケッチだ。
ひときわ大きな額に入った絵が、刻々と変化するのには驚いた。桜の花が散るなかで結ばれた男女が、やがて子を生み家を成し、老いて死ぬまでの営みが描かれている。それを、桜の樹木一本の変化だけで現しているのがこころにくい。咲いて散る、それだけの間に一年という時を刻む桜を眺めていると、自分が仙人になったかのような気持ちがする。
わたしが見惚れていると、友人はさっさと額を取り外した。
額の下には、テレビが置かれていた。
六本木だとか広尾とかその辺りは大使館が近いので、コンビニにフランスやらイタリアやらの水が売っている。フランスだろうがイタリアだろうが水は水だぜ、砂漠で迷った人間は、ドブの水にも金を積む。日本みたいに温泉も台風も湧き水も豊富な場所で水に金を出すのは正気の沙汰ではないと思っていた。酒ならいくらでも歓迎だけど、水なんかわざわざ 輸入するなんてバカじゃねえの? そんなの飲んでも痩せたりはしないし ましてやフランス人やイタリア人になることなど できない。
って、原発が爆発するまでは、思っていた。
いやー怖いね、まさかほんとに水を買わねばならぬ時代が来るとは。「水と安全はタダって思っているのが日本人」、なんてもう昔話なんだなあ。安全も金で買う時代が来てるもんね確かに。
ところでわたしがしたいのはそんな無粋な話ではない。
宇治の小学校では蛇口をひねるとほうじ茶が出てくるが、
古代中国では茶は酒に並んで珍重された飲み物だった、という。釈迦の生誕時に降ったという甘露の雨を甘茶になぞらえるとおり、茶は聖なる飲み物だ。とすれば宇治は現世における数少ない聖地なのかもしれない。乳と蜜の流れる土地ならぬ、ほうじ茶の流れる土地、というわけだ。こんなファンタジーをものした宇治市はかなりステキだとわたしは思っている。
小・中学のころ、「せんせーおなか減ったー」といったら「水でも飲んでなさい」といわれ、素直にごくごく水道水を飲んでいた時代があった。カルキのにおいがしてひじょーに不味かった、が少なくともそれには放射能は入ってなかった。水と安全がタダな時代、それもいつかファンタジー、神話伝説の類になってゆくんだろう。
*
「この前高速で、走行車線がトラックでいっぱいだったから、 追い越し車線を100キロくらいで走っていたら、
後ろからすげえヤンキー車が150キロくらいで来て、 クラクション鳴らしてさ。
むかついたから、道譲ったあとに後ろから思い切り『パパー』って鳴らしたら、
怒ったらしくて急に減速してんの。でも、高速は後退できないから
前を走っている車は、後ろには絶対追いつけないじゃん?
だから俺も減速して、お互い90、80、70、60ってずっと減速合戦で。
で、結局トラックにガーって抜かれてんやんの(笑)」
前を走っている車は永遠に後ろには追いつけない、ってとこになんだか哲学性を感じた(笑)