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母方の伯父が亡くなり、告別式に参列してきた。
月始めのは十七回忌だったので、本格的な葬式は久々で、礼儀についてもいちど調べなおしたりした。革のバッグは死を連想させてよくないだとか、過度に透ける素材はダメだとか、手持ちのアイテムから消去していったら最終的に夏用の薄いワンピしか残らなかった。寒波の折だがまあいいか、外に出るのはクルマの乗り降りだけだろうしとそれにコートをひっかけていった。
わたしは故人と会話はおろか対面したこともろくになかったが、葬儀に集ったひとびとはみな素朴で生真面目そうな、脂気のないひとたちであったように思う。献花を中心とした宗教色抜きの葬儀で、溢れんばかりの白いカーネーションで棺を埋め尽くした、その花のひとつひとつの根元に、萎れないようきちんと銀紙がくるまれていて、もうすぐ燃えてしまう花なのにずいぶんと細やかに世話をしておくのだなとぼんやり思った。二十年ぶりくらいに会う従姉妹がほろほろと涙をこぼしていて、それだけでわたしもなぜだか泣けて泣けてしょうがなかった。
やはり乳飲み子のときに顔を見たきりの従姉妹が25歳になっていてそれもびっくりした、大きくなって、というのもおかしいが、一歳くらいの記憶しかないのに突然大人になってから出会ったら、しゃべってる!歩いてる!って言いたくもなる。
罰当たりで思い上がりもはなはだしいわたしは、つねひごろ友人ですら厭わしく、親類やいとこなど煩わしいだけで格別顔を合わせたいわけでもない、まして葬儀ごとなど辛気臭くてかなわない、などと少なからず思っていたのだが、いざ会うととても懐かしいしくいとおしく、かれらの苦しみや悲しみを和らげてあげたい、そのためには何でもしてあげたい、と思ってしまった。
たぶん本当に厭わしいのは自分自身で、こういう自分を好きなひとに見られたくないのでわざと、会いたくないと拗ねるのだと思う。
いずれにせよ、肉体を離れ魂のみに純化した伯父に祝福あれ。