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マンゴーはインド・スリランカ原産で、仏典にもよく出てくるので、仏教では聖木になっているらしい。釈迦はマンゴーの樹下で修行してたらしいけど、なんかこう、キリストが荒野で修行したのに比べると、だいぶんほんわかしてるよね。
インドではカレーによくマンゴーの調味料を添えるけれど、日本の福神漬けはこれを真似たものではなかろうか、と『熱帯の果物誌』(岩佐俊吉著・古今書院)に書いてあった。この本おもしろいからオススメ!
初めて「しゃっぽ」という言葉に出会ったのは新美南吉の「てぶくろを買いに」で、宮沢賢治の童話や三島由紀夫の短編なんかでもときどき出てきていた、それでわたしは帽子のことを「しゃっぽ」ともいうのだと知った。
それがフランス語経由だというのを知ったのはいつだったか覚えていないが、怪盗ルパンシリーズにはまっていた頃だった気がする。
(ちなみにわたしはルパンシリーズのおかげで、小学生にしてフランスの全国紙は「ル・モンド」、ポピュラー車は「シトロエン」、「さよなら」を言うにも「オールボワール」と「アデュー」の違いがわかるようになったので、コドモ向け読書もあながちバカにはできない)
・・・・それで、この「しゃっぽ」だが、弟にはさんざんこきおろされた。
弟「日本人ってすぐフランス語の単語に小さな『つ』を付けたがるけどさー、
フランス語の発音にそんな音はねーんだよ!」
ようするに仏語には促音がないらしく、「しゃっぽ」も正しくは「しゃぽー」だという。まあその場は「へー そうなんだー」くらいに思っていたが、ふとしたことから職場でその話をしていたら、福島出身のワカモノが
「俺のじいちゃん使ってますよ! しゃっぽ!」
などと言う。これは大変に驚いた。
わたしにとって「しゃっぽ」は書物のなかの言葉、いわゆる「文語」であって、いまだ話し言葉で使われているとは思っても見なかったんだけど。でも、しかし、ちょっと調べてみたらけっこう「生きた言葉」なのね、しゃっぽ。主に東北~北海道で方言として使われているみたい。なるほど、だから福島では現役なのか。
ちなみにものごとがダメになるという意味の言葉、「ぽしゃる」も、「しゃっぽを脱ぐ=脱帽、降参」から来ていると知って、これは正直にびっくりした。なんとなく語感で意味を判断していたけど、ちゃんと由来があったのね。
しかし日本人ってひっくり返すの好きだねえ、「はまぐり」→「ぐれはま」→「グレる」とか、「ギロッポンでシースー」(笑)とか。。
ああそうか、昨晩は幼い主人のいたずらで、毒キノコを食べさせられたのだ、と思い出す。
わたしはお屋敷で、こましゃくれて凶暴な子供の家庭教師をつとめているのだ。しかし、ちょうどいい、寝込んだのを幸いにこのまま仕事をうちやって気心知れた使用人仲間と飲みあかそう。こころ弾む思いで痺れた手足で起き上がり、そろそろとドアを開けると、そこに主が居た。
瞬間、卒倒しそうなほど落胆したわたしに、彼は嬉しそうに言った。
「元気になったな。さあ、来るんだ」
そうしてむりやり手を牽かれ連れられて行った先には、山ほどの宝物が積まれていた。
握りこぶし大のスノードームは紐を引くと四季が移り変わり、小さな真珠が雪のようにぽろぽろとこぼれる。淡い黄緑色をしたふきのとうのペンダント、銀細工のまつぼっくり、夕陽のような色をしたザクロのエキス……。
「全部やるよ」
だから嫌いにならないで。と、呟いた子どもの、小さくて熱いてのひらの感触に、目覚めた後ひどく心残り。
夏の夜は怪談だよね、と思いながら遠野物語や耳袋、聊斎志異、とんで小泉八雲や岡本綺堂の随筆なぞを捲っている。とかく寝苦しい夏の夜は、すらすら読める短編がいい。
『文豪怪談傑作選』(ちくま文庫)より、なかなかにぞっとできる話をひとつ。
百物語の座で、ある男が、かつて惨殺された尊王志士「田中河内介」父子の末期の話をしようとする。ところが、前口上を述べたところでいつのまにか話は元に戻り、同じところをぐるぐると話すようになる。そうして「カワチノスケは、カワチノスケは…・・」と、ついには死んでしまう。
「田中河内介」の話だが、さまざまな作家のバリエーションがあって面白かった。言い伝えでもなし、同時代の、同体験の話でもあるのに、作家によって多少の差異があるのは、怪談ならではというか。
「口裂け女」や「人面犬」、「トイレの花子さん」などの話にも瞬く間に亜種・変種が出来たものだ。こうした流言蜚語や都市伝説というのはたいてい創作者不明だが、そうしたクレジットが無いからこそ、自由に改変されてゆくのだろうと思う。