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いつものとおりごたまぜです。
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『ヨーロッパ人の奇妙なしぐさ』 ピーター・コレット 高橋健次訳 草思社 1996
・ イタリア人は邪視のせいで遅刻する の項が面白かった。病気にさせる邪視や、死を招く邪視はまだしも 遅刻させるって。その邪視にあったら長話をせずに居られない、って…遅刻とか長話っていうのは本人の管理能力だと思うのですが。
・ あと、ギリシャ人のVサインはくたばれ!とか、ユーモアの定義とか。
ものがなしいシチュエーションで笑うことができる才能がユーモアなら、わたしもそうそう劣っては無いと思う。つまり諧謔ということか。ブルガリア人はイエスの合図に頭を左右に振るのも面白かった。
機会があれば手に入れたい一冊。
『成吉思汗の後宮』 ~ゼナーナ・ジンギスカン~ 講談社大衆文学館 小栗虫太郎
目くるめく漢字にうっとり。達頼諾爾(ダライノール・神の湖)、呼蘭泡子(フランウザ・曠野の沼) いずれもモンゴルの名前。硬いようなやわらかいような。荒唐無稽だけど信じたいような。ジンギスカンの秘宝は、インドの王族の女と引き換えに手に入れたサファイヤ。
卍+卍(ひっくり返ったの)=田
謎解きも凝ってるし ラストも寂しくてイイ。。
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『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』 大江健三郎
「走れ、走り続けよ」 ペネロープ・マンダリンというハリウッド女優の死、学識高く優秀すぎた従兄弟の発狂、establishmentって何だ?
走れ、走り続けよ とは 従兄弟の父が五ヶ国語で書きだしていた壁の言葉。
「核各時代の森の隠遁者」 祭りに担ぎ出される王=愚者。この愚者はあまりに聡明すぎて愚かものに見える。やるせないが誰にも責任を問うことはできない。『万延元年~』よむべき?
「狩猟で暮らしたわれらの先祖」 森の民 を迫害した記憶を持つ主人公が、町にやってきた流浪する一家(母、家長、妻二人息子ひとりおさない娘一人)と交流するとゆー話。一家のゆくすえがかなしい。実際狩猟なんて…そんな時代はもう過ぎ去って久しい。原始社会の混沌は現代とはあまりに異質なものだ。これは本筋の感想ではないが・石油富豪のインディアンがみち行く車を片端からしとめてやりたい・という衝動に駆られる話はわらった。つまりなんとも言えず共感した。そのくらいの野性は、誰だって、どこかしら保っているでしょう?
「生贄男は必要か?」 大男と小人、朝鮮戦争とベトナム戦争、爆弾、戦後、浮浪児、カニバリズムと贖罪「子供を救え!」魯迅のあたしの好きな話が引用されてて嬉しかったな。人肉を食ったのない子供はまだいるだろうか?「無辜なるものの家」…子供のために生贄になりたい「善」みたいな人間はわりと居る、根本から間違えてしまった可哀相な人。民俗的な四国の風習とやらに興味を持った。その対立は聖と俗なのか死と生なのか。
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『石川淳短編小説選』 石川淳
「黄金伝説」 惚れた女がオンリーさんに変貌してたらかなしかろ。いつだって求めてるときは見つからず 求めるのをあきらめかけた頃におもいもかけぬ姿となって現れ、全てを粉々にしていくものです。
あたし石川淳は「裸婦変相」と「焼跡のイエス」くらいしか読んだこと無くてしかも「焼け跡~」を読んだときはまだこれを理解できるほど大人ではなかった。戦後ってなんじゃ?ってくらいガキだったし…闇市がはねる、白昼夢みたいな情景はあたしにも覚えがある、ようは 北京の盗版街がそっくり消えたときの空っぽ具合 みたいなもんでしょ?
俗で聖を表すココロミと受け取った。
「雪のイヴ」 靴磨きの娼婦の話だけど・この人の女の描き方は結局女という存在に幻想を抱いてる典型的なやつなのかなとうろ覚えに思った。林檎を九割食った女ではなく最後のひとかけらを食った男が女の罪をもそっくり背負う、災いの種をまくのはいつも女、「審判の逃避はともかく、もし負わされた罪というものがあるとすれば、それはかならずや自分が負わされたものについて因果にも自分で意識してみせる人間があるからだろう」言いえて妙というか・でも女は罪の意識からいつもけろりと解放されているなんてそれは違うぞ!
そうでない女だっている。それを女というかどうかは知らないが。
土から生れた 女。
「影ふたつ」 まァなんつうかスワッピングの話、「一対一だと、どうしてもこういう仕方で交際するほかはない」それで・妻の不倫相手の妻と寝てしまう男、共通のねがいは「脱出したい」という思いだけ。ラストは男ひとり生き残ってでも今にも死にそうな落ち。
「喜寿童女」 11歳の不老不死の遊女をつくる話。「金鶏」(中国の絵師)「鸚鵡石」(豊臣秀頼の子国松をめぐる物語)とかこのへん読んでこのひと歴史に題材とったりするんだなあ、という印象を持った。つまりはその程度しか知らないしまだもう少し読んでみないとなんともいえない。晦渋であるとは(まだ)思わないし実はとても幻想的(「まぼろし車」とか)、だけどファンタジーではありえないのはなぜだろう。ただ退屈になるときがある。これは自分の読み方の問題もある。
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『恐怖博物誌』 日影丈吉
うーんやっぱり好きだ。ミステリというよりは乱歩っぽいおどろさ・耽美さというか、
幻想的な部分が強いんだよね。この短編集は全部動物にまつわる話ばかり。
「王とのつきあい」 親友をボアに食わせて、死体処理した後にその蛇を喰らった男が次第に、蛇のような感覚を持つように・ってところでおしまい。うまい。別に食べなくても、殺したあとに埋めたりすればいいじゃん蛇の死体なんだから・とか思ってしまった。蛇は鶏肉に似てる、けど 人間食べた蛇は食べたいとは思わないなー。水死者が出た沖で取れた魚を、猟師は絶対に食べないと言うけどああいったタブー感だよね…つまり間接的なカニバリズム。
「月夜蟹」 幻想的で美しい。蛇身の女でメリュジーヌの連想は日本人離れしてるなー、白蛇伝とか道成寺とかさ…実際に蟹と蛇が相対したら蛇が勝つと思うけど・・
「鵺の来歴」方位だとかの民俗学的薀蓄は楽しめた、けど「二度殺す」トリックはいささか拍子抜け。不条理を追求しちゃうとミステリは面白くなくなるんだよね、殺人も犯罪も全部リアルワールドの煩悩前提だからさ。
「狐の鶏」戦前日本の風俗がわかる。うわさには聞いてたけど、百姓の次男坊は辛かったんだなー。実の母にこんな仕打ちをうけるのかと…。出征先で出会った海外の女を想って海で死ぬ、ラストが泣ける。
「ねずみ」話の中に私の研究フィールド(場所的にもネタ的にも)がまんま、出て来て、何だか苦かった…うー、トラウマ。
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『黄泉戸喫 よもつへぐい』 中井英夫
タロットのカードをモチーフとした登場人物が物語をなす「光あれ」。イタロ・カルヴィノの運命の交わる城でもタロット使ってたけどこっちのが素朴。そのまま使ってる、けど読ませる。
「緑青期」 いわゆる自伝。中井の父が生物学者でクラーク博士に学んでたことは虚無の解説とかみればよく出てる。ここではむしろヰタセクスアリス的性への言及、愛への不信、曹長を嘆かせた話、先輩将校に写真をねだられた話なんかは普通に、読んでて胸がときめく。
緑青は隠そうとしてもいずれ噴出す サガ。
誰もがそこに手を差し伸べずに居られないような笑窪のある人物はどれほど人に愛されるだろう、それならためらわず他人を愛することが出来るのに・という記述には胸を打たれた。
そうだ、人に愛される自信…希望のひとつでもあれば私だってためらわず人を愛するだろう、そうすると自分には人を愛する愛されるという資格は無い… その呪詛こそが 緑青 なのかしら。
「魚のように」 変身願望、というか妊娠願望のある男の話。面白い。「どうにかして女になれたら」「人間の場合でも生れたときは両性具有で…自分の意思で男女どちらかになりうるという仕組みになっていたら」これとまったく同じことを日々考えていた時期があったから、こういう考えは自分だけではないのかと思って興味深かった。「‘固定した男女‘という性別は不可解なものだった。女の方はよく判らないが、男は相当多くの奴が‘男を演じている男‘であることが多い」…って、まさに、あたしの疑問にぴったりだ。
それにしても「男同士でも、肉体的行為なしの信頼と愛で妊娠可能だったらいいのに」っていう主人公の思考(というよりは作者の思考)があまりにも乙女でびっくりした。思春期の女の子とかよくそう思うみたいよね。
私的に、妊娠したいっていうのは…そう思う男はやっぱり少数派だと思う、妊婦と魚というよりは胎児と魚のほうがしっくりくるし…じゃやっぱり退行願望の一種なのかしらん。
「宛名の無い手紙」 正直涙出た。直筆の鉛筆書きをそのまま掲載してて読みづらいことこの上ないんだけど
「もうとうに死んだ中井英夫の作品をよみ、せめて生きているうちに会いたかった、と、こう思ってくれる人」
へ、というくだりにとてもこころうたれた。この原稿が未発表のまま埋もれるところのものをこうして掲載してくれた編集部のこころあるやりかたにも感じるものがあった。これはあたし宛ての手紙だよ紛れも無く。
「‘本物‘ってよくないんだよね」って自分では卑下してたけど・でもあたしはやっぱり会ってみたかったな、話を聞いてみたかった。女・男の別、愛について、孤独について、死について、ミステリについて、宛名の無い手紙について。あたしも、日々、宛名の無い手紙を書いてるようなものだから。