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毎年、初夏になると庭先に弱った揚羽が休んでいる。携帯のカメラを近づけても微かに羽を震わせるだけで逃げようともしない、蜜柑の樹にでも卵を産んだ帰りかな。
赤ん坊はさかんに動いたり声を上げたり、少しずつ人間らしくなってきている。手や脚の皮がむけているのはものすごい勢いで新陳代謝してるから、らしい。
姉(初孫)の出産に立ち会わなかった父が、わたしの出産には立ち会うと宣言した。父は母の出産にもついぞ立ち会うことがなかった人なので、いきなりそんなことを言い出した理由を尋ねたが、ただただ「心配だから」の一点張り。どうやら日頃わたしが「結婚はしないが子供は欲しい」と放言しているのを聞いて、[テテナシゴ]を産むわたしを可哀想に思ったらしい。
何もかも未定のことについてそこまで気にかけるのかと笑いながら、ありがたいなあと頭が下がった。
明日恋に落ちるかもしれないし30分後に死ぬかもしれない、未来のことは全て未定。
フウセンウオ。愛嬌のある顔をしている。
発光するイソギンチャク。
展示はこぢんまりしているけれど、屋内プールでのイルカショーとアシカショーが見ごたえあり。ライブのショーはいいよね。特にイルカショーの司会兼盛り上げ役のイルカ応援団のみなさまの衣装及びテンションは一見の価値有り!
イルカかわいかったなー。尾ひれだけ水面に出してバイバーイってやってるの、愛らしすぎる。動物アレルギーになってしまったせいで、わたしの触れる哺乳類は人間とイルカ・クジラのみなんだよなあ。ちえ。『イルカと一緒に泳ぐ』というのは憧れのシチュエーションなんだけど、いつか叶えたい。
この水族館にはしじゅう横に寝ているマンボウがいるのだけど、Yさんいわくマンボウはふつう大海原にいるせいで、水族館の狭いケースの中ではガラス壁にごんごん衝突して死んでしまうんだって。だからマンボウのケースのまわりには網が張られているらしい。
網の中でひとりぼっちって、すごく寂しそうだなあと思った。何考えてるんだろうなあ。海に帰りたいとか思ってんのかなあ。それとも案外、外敵もなくて安全でらくちんだって思ってるかもしれない。
イルカショー観てておもったんだけど、イルカがサーカスの動物達よりもずっと人間と意思疎通してるような気がして、それは水の中と陸の上っていう違いかなって思った。水中じゃ人間よりずっと素早く動けるし、あまり怖いって思わないんじゃないかな。大体イルカの見世物って鞭を使わないよね。ご褒美はあげるけど。サーカスの動物達はみんな鞭に怯えていたから、そのへんの違いかしらとか。
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品川なんてめったに来ないので、ついでに味の素研修センターにある「食と暮らしの小さな博物館」にも足を延ばしてみた。無料。
常設展示は戦後以降の日本文化のあゆみ(主に台所)を中心に、特別展示は錦絵にみる日本の食文化ということで、四角く切られたスイカの見本が山盛りになってたり、東海道の名産品を紹介したり、花見弁当の再現をしたり(うまそうだった!)なかなか面白かった。スペースは小さかったけど。
それから古書店をひやかしたり、渋谷のロクシタンカフェ(たけえ!)で休んだり新宿でオムレツを食べたりして帰宅。遠藤周作の話とかダニの話とかいろいろ面白かったありがとうYさん!
……人間の毛穴には必ずダニが寄生しているなんて知らなかったよ……ショック!
プラス1の名前が決まってしまった。いや、決まって良かったけど、とても可愛い名前なんだけど、以前わたしがその名前をモチーフに創作したことがあってそのことを言いそびれたままなんだよね。。
ま いっか 可愛いし。
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こんなんで動くのか?って思うくらいちいちゃな、でもきれいに爪も整った指とか見てると崇高な思いに駆られる。
小さいころ虫採りしたときにも思ったなあ、こんなに小さいのに何もかも機関が備わってて動いてるすなわち生きてるってすごい。蝶やら蟻やら気持ち悪いとも思わず接してたけど、生命というものへの本能的な興味からだったと考えれば納得できる。
眠る・食べる(飲む)・泣くしかしてない、人生を極限まで集約してんなあとか思う。
或いは、人間満ち足りるとろくなことがないと言い換えてもいい。
満腹でタクシーに乗ると必ず酔うとか。
仕事先で貰ってきた大量の高級化粧品の前で途方に暮れるとか。そーゆーこと。
器が小さいからさ、たちまち溢れちゃうんだ。でも適量がわかんなくて詰め込めるだけ詰め込んじゃう、そんなことばかりやってる。馬鹿だなー。
『ものくうひとびと』で、コーヒーを飲んだことのなかった東南アジア難民の長老は非常食のネスカフェに病み付きになった。アレルギーのおかげで化粧なんてろくに興味のなかったわたしは目の前にいろとりどりのコスメを差し出されたら嬉々として選んでしまった。そうして自分の中にある未知の渇きに気づくのは 果たしてよいことなのかしら?
自分のつみぶかさにおののく。
……とか、そういうにんげんだから、いつまで経っても金はたまりそうにないのだった。残念!
お昼休みに近所の古本屋をハシゴしてたらご飯食べる時間が無くなった……
C・ブラッカーの『あづさ弓』が700円だったので購入。大学入りたてのときに読んだなァ。れっきとした研究書なんだけど、情緒ある序文や挿話が好きで前から欲しかったの。柳田とか折口の論も研究上の課題ではなく詩情を読み取ってしまって、分析的な読み方ができない。早々に研究をあきらめておいてよかった。
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近頃いろいろな事件や犯罪があって考えさせられる。
弟は「凶悪犯罪やるような奴は全員死刑で良い」ってデスノートの主人公みたいなことを言ってて、まあそれはある意味健全な発言なのだろうけど健全すぎてちょっと怖くなった。
わたしはこの世に完璧な悪人って居ないと思うんだよね。
それは完璧な善人が居ないのと同じことで、人間の中には汚い部分と綺麗な部分がごっちゃになっていて、なんとかしてバランスをとりながら生きてる。わたしだってむしゃくしゃしたら破壊衝動に駆られるし、反対に世界の全てに優しくしたいときもある。ほんのささいなことでどちらかに針が振れてしまうこともある、人間だから。弱いから。
「凶悪犯罪やるような奴は全員死刑」って、そういう人間の弱さについては考えてない言葉だなあと思ったの。
なんていうのかな、「自分は絶対そんなことやらない」「自分だけはそんなことにならない」ってに考えてると危険な気がするんだよね。自分の考えや行為を疑うこと、省みること、それが出来れば身勝手な犯罪なんて誰も犯さない気がするし……
曖昧な言い方だけど、人間は善の方へ向かいたいと思ってるとわたしは信じたい。
こう言った方が確実かな、「善の方へ向かいたくない人間なんて居ない」。
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近代以来の個人主義を育んだ西欧社会はキリスト教に影響されていて、キリスト教文学のテーマにはやたら罪と罰やら内省ものやらが多いけれど、その西欧社会の系譜を汲んだ現代日本でそういう概念……「贖罪」「つぐない」、そういうのってあまり一般的じゃないよね。罪を犯したものには断罪のみ、な気がする。