ゆめ か うつつ か
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限りなく薄めた毒素を砂糖玉にしみこませて服用する「ホメオパシー」の是非についてはマスコミや関連団体が日々かまびすしく論議しているが、わたしも薦められたことがある、もう十年以上前だったかな。アレルギーがひどくて日常生活もままならなかったときのことだ。試してみるのもいいかもな、と思ったが、試したいという意欲は起きなかった。
その程度のものだったが、ついこの間、ガルシア・マルケスの自伝を読んでいて、マルケスの父親がホメオパスの治療者であったことを知った。そのエピソードがとても強烈だった。ある日マルケスが愛人の女のところにいると、女の夫である黒人警官が帰ってきて、銃をつきつけられ殺されそうになったが、警官はやがて顔を覆って泣き出した。「どうして自分がぴんぴんして帰れるか、わかるな」「お前の親父さんがただひとり、誰も治せなかった淋病を治してくれたからだ」。
……ガルシア・マルケスを救ったという事実だけで、とりあえず、ホメオパシーがこの世にあってよかったな、とわたしは思った。
その程度のものだったが、ついこの間、ガルシア・マルケスの自伝を読んでいて、マルケスの父親がホメオパスの治療者であったことを知った。そのエピソードがとても強烈だった。ある日マルケスが愛人の女のところにいると、女の夫である黒人警官が帰ってきて、銃をつきつけられ殺されそうになったが、警官はやがて顔を覆って泣き出した。「どうして自分がぴんぴんして帰れるか、わかるな」「お前の親父さんがただひとり、誰も治せなかった淋病を治してくれたからだ」。
……ガルシア・マルケスを救ったという事実だけで、とりあえず、ホメオパシーがこの世にあってよかったな、とわたしは思った。
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たとえば「地球は生きている」「環境保護」「ロハス」「エコライフ」エトセトラ、美しい標語がいまひとつ心に入ってこないのは勿論わたしがひととして欠落したところがあるからなのだろうが・しかし。
環境のために言わせてもらえば人間はどんどん死んだほうがいい、生き残り勝ち残りが人間はじめ生物一般の本能で、それは植物でもおなじだ。一ミリでも上に伸びようとしてほかの芽を遮る。
ルルフォの『燃える平原』だったか、土は人を蝕み・殺す、という言葉があった。古代ヨーロッパにおいて森は魔が棲むところだった。自然を克服し手懐けるのが人類史の大いなる課題と目的で、いわば人間は自然と戦い続けてきた、それを今さら急に守ろうだなんておこがましいし、守るのはあくまでも「人間に都合のよい程度の自然」だろう。
ことさらに標語を唱えると、そういう人間の本音が透けてしまうような気がしちゃうんだ。
環境のために言わせてもらえば人間はどんどん死んだほうがいい、生き残り勝ち残りが人間はじめ生物一般の本能で、それは植物でもおなじだ。一ミリでも上に伸びようとしてほかの芽を遮る。
ルルフォの『燃える平原』だったか、土は人を蝕み・殺す、という言葉があった。古代ヨーロッパにおいて森は魔が棲むところだった。自然を克服し手懐けるのが人類史の大いなる課題と目的で、いわば人間は自然と戦い続けてきた、それを今さら急に守ろうだなんておこがましいし、守るのはあくまでも「人間に都合のよい程度の自然」だろう。
ことさらに標語を唱えると、そういう人間の本音が透けてしまうような気がしちゃうんだ。
暇つぶしに本をぱらぱら捲っていたら、マザーグースの歌でこんなものがあった。
「月曜日の子供は顔がきれい
火曜日の子供は気品にあふれ
水曜日の子供は悩みが多く
木曜日の子供は遠くまで行く
金曜日の子供は愛情ゆたか
土曜日の子供は働いて暮らしをたてねばならぬ
けれども、安息日の子供は
可愛くて賢くて品がよくて朗らかだ」
……日曜日だけものすごい贔屓されている。ずるい。
しかしまあ、一週間の曜日で分けるっつうのはいかにもユダヤ・キリスト教的だよね。ちなみにわたしは木曜日生まれで、確かにちょくちょく遠くまで行っている。
以前アメリカ人に教えてもらった曜日占いでは、木曜日生まれは開放的で自由だと言われたが、これは木曜=ビーナスの連想だろね。
「月曜日の子供は顔がきれい
火曜日の子供は気品にあふれ
水曜日の子供は悩みが多く
木曜日の子供は遠くまで行く
金曜日の子供は愛情ゆたか
土曜日の子供は働いて暮らしをたてねばならぬ
けれども、安息日の子供は
可愛くて賢くて品がよくて朗らかだ」
……日曜日だけものすごい贔屓されている。ずるい。
しかしまあ、一週間の曜日で分けるっつうのはいかにもユダヤ・キリスト教的だよね。ちなみにわたしは木曜日生まれで、確かにちょくちょく遠くまで行っている。
以前アメリカ人に教えてもらった曜日占いでは、木曜日生まれは開放的で自由だと言われたが、これは木曜=ビーナスの連想だろね。
小学校高学年から中学高校にかけて、わたしは中国文化に傾倒していた。その傾き加減はすさまじく、NHKの「漢詩紀行」を標準録画し、孔孟老の書物から漢書や後漢書のたぐいにまで手を出し、果ては中国に家出(ほんとう)するまでに至っていたが、その端緒となったのは他でもない、かの有名な三国志演技なのであった。
わたしは吉川三国志(吉川英治が書いた三国志小説を指す。日本でいちばん有名な三国志の小説)から入ったために、当然蜀びいき、しかも諸葛孔明ラブ(ここらへんは、読んだひとにしかわからない機微がある)だったのだが、まあそんな話してもmみたいな若いひとにはわかんないかな、と思ったら、どうしてけっこう知っていたのでびっくりした。今は漫画やらゲームやらたくさんあるからな~。
話が通じたので、気をよくして「姜維(きょうい)と生姜って、似てるよね」と 言ったら笑われた。
「しょうがないじゃん、しょうがくせいのときに読んだんだから、しょうがって読んでも」
「しょうがしょうが言い過ぎ、驚異(きょうい)のしょうが率だよ!」
綺麗にオチがついた!
いや、わたしは別に、狙って言った訳じゃないけどね。
ところで先日「100%幸せな人の生き方」とゆーキャッチフレーズの本を見かけて、そのことばのお粗末さに、思わず眉をしかめたくなったのだった。
わたしの考えでは100%幸せな人など存在しない(なぜなら不幸を知らずして幸福を知ることはできないし、不幸だったことがある人間は100%幸せにはなれない)し、仮にそんな人が居たとしても、そんな人間は自殺するしかないと思うからだ。
100%の幸福には、不幸の可能性しか残されていない。以後どんどん不幸になるのが解っているのに生きていくということは、そのひとは100%不幸であるということだ。
100%という言葉にはそのくらい重みがあるとわたしは思うのだけど。
わたしの考えでは100%幸せな人など存在しない(なぜなら不幸を知らずして幸福を知ることはできないし、不幸だったことがある人間は100%幸せにはなれない)し、仮にそんな人が居たとしても、そんな人間は自殺するしかないと思うからだ。
100%の幸福には、不幸の可能性しか残されていない。以後どんどん不幸になるのが解っているのに生きていくということは、そのひとは100%不幸であるということだ。
100%という言葉にはそのくらい重みがあるとわたしは思うのだけど。