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それはそれで素晴らしいことだが、「イッツ・ジャパニーズ!」って皮肉もちょっと感じてしまった、冷静で規律を守り大人しく団体の和を乱さないというのは、わるく言えば不感症で自発性に乏しく、団体でないと動けないということだもの。
日本人のこうした態度は民度やらモラルがどうと言うよりは、もっと素朴な反応に思える。条件反射というか。
アジア特有の儒教文化、道徳観念もさることながら、かつて日本にあった農耕主体のムラ社会伝統とかね。ムラでは個人でたちゆかない作業が多く、助け合いの精神が生まれそして村八分など負の要素も生まれた。土壌としての日本のムラ制度、相互扶助がいまだ生きているのだとすると素晴らしい、素晴らしくて恐ろしい。
政府の言にいともたやすく右往左往、今ですらこうなんだから戦時下で玉砕とか言われたらその気になっちゃったんだろう。「やまとダマシイ」(やまと心とは一線を画する)の根っこは深い。
そう、だから、トム・クルーズはサムライになれないだろうが、座頭市が欧米人というのはアリだ。異人は流れ者、鬼子となる運命だから。
大気汚染 → 人的被害 → 観光産業停止
↓
・土壌汚染 → 農業・酪農関連事業停止
・海水汚染 → 漁業関連事業停止
↓
外食・加工食品産業停止
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関東以北の経済悪化
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反論をば。
まず、放射能汚染を待つまでも無く、近来飛躍的に進んだ地球規模の大気汚染・土壌汚染・人工調味料による化学汚染の結果、現代日本人は未曾有の有害物質を体内に取り込んでいる。いまさら放射能が加わったとて寿命への影響は大差ないだろう。祖父母・親の世代に比べわたしたちの食糧事情はあまりにも近代化・合理化を遂げてしまった、廃棄肉から作られたハンバーグ、サラダ油で出来たコーヒーフレッシュ、蟲で色付けされたジュース…。こういった世界になってまだ一世紀も経ってない。わたしたちはその間に化学物質への適応力をつけたかもしれないし、あるいは適応できないまま毒を受けて死んでいるかもしれない。そこんとこの正否すらよくわかっていないのに放射能の被害を云々するのは、早急にすぎるような気がする。
とどのつまりここで生きていくしかないのだし。
まずは自分の位置を正しく知ることだ。ひとは生きているのではない。生かされている、もろもろの偶然によって。だからこそ生命は尊いのだと。
さてこのたびT電のかくも見事な「計画」「停電」のおかげでみんごと「出勤難民」になりおおせたわけだが・・・・、
出勤・帰宅に何千円もかけてちゃやってらんねえーよ、と思って今日はお泊り支度でやってきた、ら、職場が明日は「自宅待機」になった。
帰らせてくれた上司は泣きたい気持ちが高じて笑っていた、気持ちはいたいほどわかる。
いや、、被災者の方々に比べればこんな苦労心労、笑い飛ばせる範囲だろう。先日読んだ小説の一節を思い出す、「彼女は君に代って煉獄を歩んでゐるのだ。見ろあの悲しい足取りを」。そう、彼らは今、わたしたちに代わって煉獄を歩んでいる。悲しくも確かな足取りで一歩一歩、その歩みの痕にいつか花咲くことを信じて。
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震災直後、祖母の様子を見に行った父に、彼女は語った。
「88年前、わたしが5歳のころ、関東大震災が起こったの。そのときわたしには7歳と10歳の兄が居てね、そのうちひとりは、戦争で死んでしまったけれど。わたしは、針仕事をしていた母のそばで、二階で、遊んでいたの。そうしたらぐらぐら揺れてね、それでお母さんと、『おにいちゃんたち、またお相撲してる』って笑ったの」。
祖母は長野の山深い地の産で、だからたいした揺れもなかったのだろう。
敗戦時の満州を駆けぬけた烈婦(死語?)だけあって、今度の震災にもまったく動じていなかったそうだ。
時経ればこれも歴史の一頁、などて目方は日本列島。
わたしもいつか、祖母くらい達観したおばあちゃんになれるかしらねえ。
男子A「『アンニュイ』ってどういう意味なんだろうなあ」
男子B「そうだなー、あれは多分、アンが『一つの』、ニューイが『新しい』で、『一つ新しい』っていう意味なんじゃねえかな」
A「あ!なるほどそうだそうだ!」
たまりかねた母「そうじゃないわよ、『けだるい』よ」
A「え?なんすか?俺たちの会話、けだるいっすか?」
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いわゆる『一つの新しい』解釈ではある。
……と、先だって読んだ塚本クニオ氏の小説にあり、まるきりわたしの夫婦観だなあと思った。
もすこし言えば、家族や友情、恋人だって孤独の連帯だろう。
昔わたしは、愛するひとができたなら寂しくなくなるのではないか、と期待していた。実際は、孤独と愛は無関係で、それらは全く別の問題だ。ひとはみな分厚いガラスの瓶に閉じ込められ大海をさまよっているようなもので、瓶から出たら死んでしまうので、人々はガラスを通してささやかに交感しあうだけ。
人間は解りあえない。
愛の正体は世間でよく思い込まれているようなうるわしいもんでなく、もっと殺伐とした、この気の狂いそうな寂しさを分かちあえないと知っていて、それでも愛する、その覚悟そのものにほかならない。