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ゆめ か うつつ か
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かつてわたしが就職活動につまづいたとき、いくつかの失望を味わった。

そのうち最も大きな失望は、[居場所が定まれば生きるのが少しは楽になるかもしれない]という儚い希望が潰えたことだった。もとよりやりたい職業などなく、ただ存在はしなければならないと愚直に思っていた、生き続けていくにはどうしたらいいのかわからないがさしあたり金と居場所は必要で……

居場所=存在していても許される場所。

「居場所がない」と言ったら、親は「贅沢言うな」と言った。それは正しい。選ばなければきっと何でもある、就職にしろ結婚にしろ。ようはノーチョイス、選択肢が無かっただけの話。そしてわたしは未だ居場所を探し続けている、ノマディズム。





わたしの譫言はともかく、就職にしろ結婚・子育てにしろ、今はいろいろと難しいよね。

昔に比べより大きく変わったのは、ヒトというよりは環境じゃないかと思う。環境、周囲。たいていのヒトは、比較対象がなければ自分を捉えられない。たとえ自分の年収が一千万になっても、他人がみな一千万もらっていたら嬉しくないというのは有名な話(@ゲーム理論)。ひと昔前に一億総中流の時代が成り立っていたのは、誰もがみな「他人を蹴落として自分だけは金持ちになる」希望を持っていたからだ。かくして淘汰は進み、極めて民主的に階級社会が形成された。「この先も永遠にあんたの生活は変わるみこみはない、永遠に中流かそれ以下に甘んじるのだ」と断じられてしまえば、金のために働く誰もが少なからず意欲を失うだろう。ギリシャ神話のタンタロスのように、きよらかな泉の中に居るのに、水を飲もうとすると遠くに逃げてしまう永遠の渇きの罰。栄華はすぐそこにあるように見えるが、決して手には入らない。


そんな時代で下になるのは御免だが、上になるのもまた恐ろしい。つまりは階級に嵌めこまれたくないということ、冷笑的と言われようが事実を歪みなく見つめられる位置に居たいと思うこと。マージナルでいること。これは難しい。難しいけどやるしかない。下になっても上になってもわたしは存続できなさそうだから。

いつの時代においても、幸福のヒントは物質的な充足より精神的な充足を大切にすることにある。ひとが寄り添うのはそのためだ、と最近思う。


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自分のこころが傷ついていく音を聞いたことがある。

よくガラスだとか鋼鉄だとかいう形容があるけれど、こころはそんな材質ではない。こころが傷つく音はあんなに硬質な、高らかな音ではない。何か非常に軟らかく弾力があるもの(例えばチーズのような)、そんなものにゆっくりナイフを入れるような、異質なものがめりこんでくるような、つぷつぷとした静かな音、静かな痛み。血も出ない、際限なくただ細切れにされていく、そんな感じ。


熊本出身のKちゃんは日常会話の最中、たまにお国言葉が出る。

大抵の場合は文脈から意味が判断できるのだが、ついいろいろ尋ねてしまう。すごくフレッシュな言葉に出会えた気分なんだな、フレッシュな言葉というか、言葉のフレッシュな使われかたを見れるというか。この言葉でないと伝えられない!っていう感覚的な部分。


で、「アナホゲル」。「穴があく」の意味らしい。

例:「奥歯にアナホゲったたい」

ホゲルっていうのが、いかにも取り返しつかなそうなかんじでよい。


ちなみに結う、結ぶ=「くびる」だそうだ。福岡ではたしか、「きびる」だったが、「くびる」方が断然コワイ。

もともとあまりスポーツに興味の無い人間で、今季のオリンピックも横目で流し見していた程度なのだけど。同僚のKちゃんにフィギュアスケートの見所を教わって、にわか観戦している。


ナニコレ面白い!


って思ったのはたぶんフィギュアスケートにはアートな要素があるからだろうな、と考えた。

つまりそれってフィギュアはアートそのものではけしてないということで、ひるがえると、やっぱわたしはスポーツを心から楽しんで見れない人間なんだなとも理解した。勝ち負けのあるものが好きじゃないみたい。

パーソンズの社会分析の基礎理論にもgoal attainment(目標達成)なんてのがあったし、勝負要素はモチベーション・動機付けにおいて有効だけどさ、なんかそういう目標達成がすべてだーってテンションが好きくない。五輪も国力アピールのための政治的な場所、または経済効果を期待した「売り物」的な要素をつい考えちゃってさあ。

もちろんそういう要素なくしてアスリートの活躍なし、なんだけど。

五輪てのは戦争みたく命かけてるわけじゃなし、みんな楽しくわいわいできりゃそれでいいんじゃん?って思う。

*追記

とりわけ冬季オリンピックって、金のかかる競技が多いから競技者が著しく限定されるし参加国も限定される。そういうとこも、なんか、好きになれない理由かもしれない。
 

弟の知り合いのゲイ夫夫(ふうふ←今作った表記)が、今度、第二子をつくるらしい。

……耳を疑ってしまいそうなその話の内容はどういう事かと言うと、そのゲイカップルはスウェーデンに住んでおり、かの地では男同士の婚姻が法的に認められている。資産家の彼らは渡米し、代理出産で一子もうけたが、それでは片方の遺伝子しか受け継いでいないので、もうひとりの遺伝子を持つ子供をつくるのだそうだ。

ちなみに代理出産の費用は「小さい家が一軒建つくらい」。。

まあいい年した男ふたりの収入合わせりゃそれくらいイケるのかもわからんが、しかし、男同士のカップルてそういう意味では子供を持つのが大変そうだなあ。

でも全く知らないひとの遺伝子入ってるってことだぜ、それでいいのか?と弟は言うが、わたしは何となくわかる気がした。わたし自分の子供は愛せるかわからないけど、好きなひとの子供なら愛せるもん(とゆったらYさんには怒られたが)。

弟「俺はノーマルだからそんな不自然なことしなくても、相手に産んでもらうもんね」

まあね、それがいちばんラクだしね。

しかし両方パパって、子供が思春期に入ったらちょっと大変そう・・・・?愛があればノープロブレムか。
まあその愛がなければ自分は誕生していないものね。

ちょっといい話だなあとわたしは思ったわけです。

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