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ゆめ か うつつ か
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仕事やめた日に買った。何年も前からずっと、レトロちっくな金側腕時計が欲しいなあと思ってて、働いたら買おうと思ってたけど、働いてる時は買いに行く暇が無かった。
時計の善し悪しはよくわからないけど、ピンクがかった柔らかい金色の細いベルト、裏蓋に薔薇の徽章が入ってるのが気に入った!


生まれて初めて自分のバイト代で買った時計はカシオのベイビィGで、黒い文字盤、黒革のベルトに同色の蝶の刺繍、バックライトに月下美人の花が浮かび上がる小粋なものだった。デザイン、性能共にカジュアル系の腕時計で未だあれを超えるものが見つかっていない(探して無いだけだが)。



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日常はミルフィーユのパイ皮のごとく積み重なる。

それ自体に味は無い、だからこそ中にあるクリームの甘さにありついたときの嬉しさと言ったら。

クリームだけでは味わえないのだ、無味乾燥な日常の味なき味、それこそがアタラクシア(平静の境地)。

あたしはいつでもあまいあまいクリームに満たされて居たいと思っている子供だった、でもエピクロス(悦楽主義者)の真実は節制と禁欲にあるわけで。
欠乏すなわちM的快楽、ひたすらにパイ皮を重ねクリームに憧れ続ける日々の最悪な素晴らしさを識った今は、この甘さが少しだけ

怖い。




「いつか、長い人生が終わるときに、ずっと自分と共に居てくれて、自分のことをよく知っているひとが居る(もしくは居た)っていうことはとても慰めになるんじゃないかな」

←弟が「結婚」について語った言葉だけど、いろいろ興味深い。

まず完璧に結婚を個人の問題と考えてるところとか。
ああそうかぁ、 はじめに自分ありき で 考えると確かにそうなるね。ここには嫁姑の原理や一族(イトコ関係)のしがらみが一切無い。こういう考え方って子供の居ない夫婦やゲイカルチャーに共通してるよね。

共感できるか否かはともかく、いい考え方だなあって思った。
自分のことをちゃんと好きな人間でないと、こういうふうに思えないから。

あたしは、いつか、長い人生が終わるときに、ずっと自分が書いて書いて書き続けてきたものを、誰かがこれから読んでくれるかもしれない、知ってくれるかもしれないって思うととても慰めになる。





最小範囲での他人、それが夫婦。
他人だから理解しあうために努力する、その努力が尊いのであって 最初から愛なんてあるわけない。

「愛し合ってるから結婚した」っていう錯覚は大変結構なものですが、現実は「結婚したから愛し合えるよう頑張っている」にちかい。結婚の最低条件は「一緒に居ても嫌悪感を催さないレベル」だろうと思う。

まあ主にあたしの至らなさについてなんだけどね、家族に関するささやかな愚痴を口にしたら「両親のことをためらいなく話せるのはいわゆる上流階級だ」って言われて目からうろこだった。
よのなかには家族や両親について口に出したくない人も居るってこと、「まとも」な家庭で育ってない人はそういう愚痴すら話せないってことは判ってたけど、「上流」がそう定義されるとは。

うーんでも客観的に、あたしんちは、そんな、ドがつくほどまともではない。家族についてためらいなく話すのは、あたしが短慮でがさつであけすけな人間だからで、だってほんとに「上流」だったら泣くまで罵りあったり殴り合ったりテーブル壊したりしないでしょ?

あたしの美点にして欠点は思ったことを隠せずすぐに口にしてしまうことで、それでいつも困った事態を引き起こす。
特に友達とか家族間で、隠さなきゃいけないことがあるって思わないんだ。それは誠実でない気がするんだな。あたしは自分以外の人間は好きだから、あまり嘘はつきたくない。

…ガキって言われた。そうですね、子供です、って言ったら苦笑された。

斯様にあたしの言うことやることは幼稚でガキっぽいといつも言われるし自覚している、でも、それらを悪意から為したことはいっぺんも無いよ。うん、多分。それはある意味始末におえないだろうけど、例えば子供のように、あたしは人に(人から)悪意を認められないんだ、ひとがあたしを嫌いになってもあたしはそのひとが嫌いになれないんだ。

ずるくならなきゃダメかなあ?打算とかそういうの身に付けなきゃダメか?それってどうやったら身につくの?
わかんねえや。


「人生で一番苦痛なことは、夢から醒めたときに行くべき道がないことだ」と、魯迅は言った。





あたしが「愛」を書くことに拘るのは、形の無いものに形を与えたいと思っていることもさることながら、あたしには「真に誰かを愛することは生涯無いのではないか」と言う虞れがあって、愛なき生を生き抜くにはあまりにも脆弱な自分を自覚しているので、どうにかこれを解き明かしたい、知りたい、愛を知ることが愛することの代わりになると思っている、代償行為…本当はそんなことをしても何にもならないということも分かっているのに、なお夢を見る、

「ひょっとしたら?わたしでも?愛に近付くことができるかもしれない?」

そんなことを考えている限り、愛を書こうと思う限り、つまり〈わたしがわたしである限り〉愛には辿り着けないだろうとわかっている、それなら尚更、夢を見る他に何ができるかしら?


←愛をなにかとても素晴らしいもののように思っているからこういう考えになる。

愛なんて本当はとても身近なところにあるありふれたものなんだろうと判ってはいるものの。
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