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ゆめ か うつつ か
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脳内では絶えずさまざまな思考がとりとめなく流れ続けているのにじっくり深める時間が無いのが口惜しい。


・親父いわく「車は動物的である」とのこと。父のおぼろな言葉を補い要約すると、速く走る、滑らせる、遠くに行ける、運動性を重視したフォルムと機能の全てが人間の願望を表すらしい、すなわち「もっと力を!」
…なるほど特に男性に取って車とは権威の象徴だ、より速くより遠くに行けること=体力は最も根源的な男の価値だから。

親父は若い頃から四輪駆動やスポーツカーが好きだったのだが、最近にわかに軽が好きになった、その理由や原因を考えると、少し寂しい気がする。

・阿部公房の『第四間氷期』に「予言は未来をつくるためにあり、現状を維持するためのものではない」「未来に対する罪は過去や現在に対する罪と違って本質的・決定的なもの」というくだりがありとても私の興味を引いた、つまりは母体と子供のどちらを救うか?という話、親殺しと子殺しの話にも繋がる(私はこの話題に尽きぬ興味を持っている)。親=現在、子=未来。変化の無い未来は未来なのか?という疑問、革新を恐れ変化を拒否する限り事態は悪化する、しかし変化しても事態は良くなるとは限らない…扉の向こうには絶望しかないとしても、原形を止めぬほど変化しつくしてもその営み全てが認められるべきではないのかしら?勝利も敗北も生成も消滅も、全て。


・憧れは愛よりも憎悪に近い、マイナスの感情なのだと思う。どんなに願っても自分には手に入らないもの。欲望、嫉妬、恐怖に親和する。
私は山育ちだから海に憧れそして恐れを覚える、海に近しければどんなに良かったろうと思う、良かったろうと思うそれは最初から失われた思いであり渇望なのだ。


・戦場において失敗は前提条件、いかに失敗を少なくするかが勝敗の分かれ目、らしい。功を焦る、急ぐものから死んでいく。最初から成功を志さない、消極的前進、守ったもん勝ち…
人生に応用すべき教訓だわ。


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…完成させ完全にするのを恐れること。

インディアンのある部族が土器なんかをわざと作りかけのままにして使うとか。日本でもわりと、そういう志向があるよね。未完成のままとどめおくこと。近代以前の建築だと日光東照宮の逆柱、満月を不吉なものと捉える、おみくじの大吉より中吉を貴ぶ、のび太が栗まんじゅうを食べ終わるのを悲しむ(?)…これは終わること・死への恐怖にも繋がる。

欧米には全き存在=唯一神が居て、「完全性」は疑いなく賛美されるものだけど、多神教体質の日本にとってうつろうことは前提だから…諸行無常。

近代化=欧米化以後、欠けているものは補填されなければならないという合理主義的な精神は日本にも浸透しているけれど、あたしはむしろ 終らないこと の方が恐ろしい気がする。


先年修論を書いていた際、ものを書くことについて少しまじめに考える機会があった。

あたしはそれまで自分がものを書くということをごく簡単・素直に、自分だけの作業のように感じていた。
つまり自分が書いていて楽しい、快楽をかんじる、を優先する。メッセージなど二の次という態度、それは実は文学ではなく娯楽に近い。

人によって楽しいと思う娯楽が異なるように、そういう作品づくりは、同志を得ることができたとしても結局は小さな世界で完結していきやすいのではないか。

比べて、現実への問題意識からしっかりとしたテーマを持っている文学は広がりを持つ。それは、人間が持ちうるテーマを突き詰めていくと幾つかの基本的なものに限られて来るからだ、つまり文学とは「われわれはどう生きるべきか」という根本的な問いなのだろう。

これは個人の好みに拠るし必ずしもどちらが優れているということはできないが(現実に即していない幻想的な作品の傑作はいくらでもあるように)、あたしに娯楽ではない文学が書けるかと問われたら難しいところだ。

それは自分自身の問題、テーマをきちんと踏まえているかどうかということだから。

さてあたしに問題はあるか?と考えて、もちろんあたしという人間は問題だらけ・欠陥だらけなのだが、しかしそれは解決しうるものが大半で、生まれながらにして・或いは環境的に・困難があるわけではない。

あたしは特に経済や健康や才能に恵まれたわけではないが今まで中央に近い場所でほどほどに生きてこれたし両親も健在、つまり問題意識を持ちうる余地が少ない。

それはとても幸せなことなのだが、同時に自分=アイデンティティに対して無自覚であるということだ。

私の知人で北海道生まれの人が「いっそアイヌに生まれたかった」と言ったことがあって、あたしはその時なんちゅうことを言うのだと内心呆れた、被差別者をボウトクしているような気がしたのだ。

今ならわかる、彼は自分に守るべき何のアイデンティティも無いことを怨んでいたのだった、とりたてて守るべきものもない状態、弛緩しきった自分に絶望しているのだった。

世界で価値の高い文学(…に限らず絵や音楽や思想でも)と評価されているものは全て周縁、中央から離されたもの、ぎりぎりまで虐げられ追い詰められたものから生まれていることを考えるとき、紀州とそこから生まれた文学や思想はいろいろ面白い。

まさにその地域でしか生まれえなかったものを見たかったのだった、これは現今日本の中心都市(のはしくれ)に生きているあたしの模索のようなものかもしれない。





ところで彼女はあたしのことをたまごの中身と殻にたとえた、あたしはたまごの中身のように不定形でしっかりした形(スタイル)を持っていないがしかし確かに「そこに在る」、これはもっともな指摘だと思った。

殻を持たずにあたしは生まれた、
スタイルを持たないというスタイルがわたしのやり方で……
いつのまにかそういうふうになっていた、それを選び取っていた、「選ばないことによって選んで」いた。

どこにも自分を定めず・定められず・いつまでもゆらゆらふらふらしている。

あたしが、戦争や差別や犯罪他諸々を学び かつ 意見するにも関わらず その問題意識を創作に反映させないのは、そこに思想が絡んでくるのが怖いからだ。

世間一般ではたまごの中身より殻にこだわるし殻がこだわられる、思想が怖いのはそこで、右だろうが左だろうが基本的に大切なことは同じだとわたしは思う、たまごの中身はひとつ、言うなれば生きる上での核心部分をわたしは取り出したいのだ、それがあたしの書きたいもので……

あたしの、書くという営みなのだと思う。





水分を全て奪われ乾いてしまうとしても 中身だけをそのまま保ち続ける無謀な試み。







休日でにぎわう図書館の自動ドアにはさまらぬよう気をつけていたら

自動ドアの溝にヒールがはさまり
抜けなくなり
つまづいたあげくに靴が脱げ

やっぱり自動ドアにはさまれた。

あますところない失笑。





自分の体の操作が下手。単純な動作はともかく複雑な動作ができない、体育も、走る跳ぶは得意だけど球技はダメ。道具使うのは苦手。

そういえばあたしは自他共に認める悪筆で、いや謙遜でなく、普通ゆっくり丁寧に書けばそれなりに綺麗な字が書けるはずなんだけどあたしの場合はいくら気合いれてもそれなりのレベルにも達しないので、その下手さに思わず首を傾げられるくらい、下手。

理由はいろいろ、それこそ身体操作に問題があるとか、性格がラフだからとかあるけど、やっぱり大きな問題は書き順がめちゃくちゃだということだろうなあ。ありえないくらいめちゃくちゃ。

今はもうだいぶ気をつけてるのでめったに指摘されることは無いけれど、それはここ数年の努力の賜物であって二十歳くらいまで本当に、自分でもありえない書き順してたと思う。へんとつくりの、つくりから書き始めるとかね。努力の努を力から書き始めるとかね。

言い訳さしてもらうと、まず初歩的な文字・漢字を覚える時期、小学校低学年の頃にはあたし、既に大抵の日用漢字を覚えてしまっていたというのがある。だから漢字の書き取りをまじめにやらなかったんだな。文字を絵・記号として覚えてたので、最終的に正しいカタチになればそれでよかった。

だから簡単な漢字になればなるほど書き順が間違っている。難しい漢字ほど書き順のミスは少ない。

実はこの傾向……文字をイラストとして・瞬間記憶として覚えるというのはある種の自閉症児にみられるらしく、それを知ったときはちょっとへこんだ。。


うーんうーん ちゃんとしたおとなになりたいなあ。

風邪が全然治ってくれないので、怪我をして実感したことの追記など。


人間関係の最たるもののひとつは恋愛だというのはかねがね実感していたのだけど、「手術室の外科医と患者」という関係もわりと濃い、と今回思った。

外科手術を受ける場合って、ある程度緊急もしくは重度の症状を癒すためでしょ、無防備な自分の体を見知らぬ第三者にまるごと委ねるわけでしょ、すげえ勇気要るよね。勇気というか諦めというか。心身共に弱ってる状態で信頼感なんて付け焼き刃でしょ、信じたい、信じさせてという祈りにも似た。
それで、手術が無事終わると感謝とか安堵とかごたまぜになって、多幸感に舞い上がりそうになる。その気持ちは人を好きになる、恋の感覚に似てると思う。驚くほど浮かれちゃう、アレ。事実わたしの知人で治療を受けた医者に恋しちゃった人が何人かいる(そして一人は結婚まで漕ぎ着けた)けど、無理ないなぁと思った。
鏡花の「外科室」、あれはまんま愛する人に手術してもらう話だけど、冗談じゃなくああいうふうに考えるしかないんだよね。まな板の上の鯉、お腹見せて降伏、あなたには殺されてもいいわ・ってのを地でいく勢い。いきなり出会ったアカの他人に自分を預けるって、そういう錯覚を催してもしょうがない状況だとちょっと思った。或いは釣り橋効果的な面もあるかもしらん。

で あたしが検証したいのは「医者=男、患者=女」でなく「医者=女、患者=男」の場合この錯覚は起こり得るか、すなわち男性は自分の肉体を手術により救ってくれた女性医師に恋愛感情を持ち得るのかということで、これはわりとビミョーでないかと思う。医者って権威的な存在だからさあ、フツーの男性はなかなか恋愛対象にしにくいと思うんよ。看護婦(女性看護士)さんとかそっちに行くんじゃないかなー。


…性的嗜好としての女性医師ってのは違うからね、念のため!

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