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ゆめ か うつつ か
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真昼の公道、よどんだ空気の中をのろのろと時速30キロくらいで流していたら、ぼたりという音と共にフロントグラスが滲んで、あっというまに世界が流れ去った。

ワイパーをフルで使っても視界が確保出来なかったので道の脇に車を寄せてハザードランプをつけた、これも雨宿りと言うのかな。

雷鳴が轟く真下で、箱みたいな車の中で、稲光を眺めてた。海の中から空を見てるみたいな気分。

雨が上がったら空気はすっきり、汚れてた車もやけにこざっぱりしていて、洗車の手間が省けたなあと思った。あの勢いなら頭も洗えそうだな。





うろ覚えの雷と農耕の民俗説話。

日本を含む東南アジア圏すなわち稲作農耕地域では雷と稲は密接な関係にあり、稲は雷によって孕む(よい実をみのらせる)と言われる。だから雷のことを稲妻・稲光と言うらしい。

宇野円空っつう戦前の人類学/民俗学/者がフレーザーばりに事例を連ねた農耕儀礼研究の分厚い本を出してて、大学二年ときにうんざりしながら根性で読み遂げた。後日、卒論で稲作農耕を取り上げた子すら「読むのが苦痛すぎる」みたいなことゆってて、何か薄ら寒い自負心みたいなのを感じた。

民俗学は相当読んだけど専門にはしなかった。その知識は何かの役に立ってるわけでもなく、時々こうして雷の話をするくらいつまりは雑談のタネ。


わたしの人生はこういった無駄が多い、そして何度か言ってるけどわたしはこういう無駄な豊穣さを愛している。



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いざ 

さあ お前のことを話してみろ

と いわれると何から話せばいいのかわからなくなってしまってしばし言葉が途切れる、

かつてそうして黙り込むわたしに、「どれだけ時間がかかってもいいから最初から全部話しなさい」って言ってくれたのはF先生だった、それ以上にわたしを救ってくれた言葉は今のところ無い。

……そういうわけで断片的にいろいろ話しているのだが話せば話すほどとりとめがなくなっていく、今の世の中に「ネタ」という言葉があってよかったと思う。実際わたしの半生はネタ以外のなにものにもならないと思う。

ただ客観的な意見が聞けるのはありがたい、
わたしの読書暦は「まるきり男の子だね」って断定とか。ほんとそうだ!!!
怪人二重面相シリーズやルパン・ホームズ、里見八犬伝に三国志水滸伝の歴史大河もの、好色本にサドやマゾッホ、バルトー他哲学書への流れとか。。

うわーうわーそうだったんだやっぱり!ってちょっと興奮した。いままで誰も言ってくれなかったし自分でも気づいてなかった、そうかあたしは不健全な文系女子ではなく、健全な文系男子の思考を育んできていたのか。。

(ちなみに健全な文系女子とは:赤毛のアンや小公女から始まってリルケや立原道造の詩、サガンなんかを愛読したりするっぽい)


・・・そのコメントに対するわたしの感想はタイトルに尽きる。




犬が死んでもう半年以上経つのに未だに帰宅すると庭先から犬が顔を出すような気がしてしまう。
犬は私が帰るとまずは上目づかいに「不審者でない」ことを確認し、「美味しいもの持ってない」「散歩でもない」「帰ってきただけ」ということを確認していたので私はちらりと一瞥をくれてやり、時に気が向けば頭をひとなでもしてやっていた、それは習慣であり惰性だから愛ではない。ただどうしようもなくひきつり痛む、記憶に刻まれた傷のような。

何が哀しいのだろう、もう居ないこと?もう居ないから優しくしてあげられないこと?生きてる時に優しくしてあげられなかったからという後悔ゆえ?

いまさら。





幸せであることに卑屈になる必要は無い、不幸であることがなんら誇ることではないように。

生きてるだけで大罪を犯してるような気分になるのは何でだろ、罪悪感にうちのめされるんだ、カフカの『城』みたいにいつか突然身に覚えの無い罪で処刑されてしまっても唯々として従ってしまいそうに。

そう、でも、直接間接問わず 多くの犠牲のもとにわたしの命が成り立ってるから、だから幸せでなきゃいけないのだとも思う、その価値も無いのにそうならなければならないというプレッシャー。

幸せは見つめるものではない、なのについそれを観察しようとしてしまうのでなかなか、幸せになれない。





読んでるか書いてるか落ち込んでるか の三つがわたしの基本的な行動パターンで、これに寝るとか食べるとか料理を作るという項目が入って日常が成り立っている。

姉は痛いのがキライなので、自然分娩ではなく無痛分娩にしようかどうか迷っていて、でも姉のかかる病院では無痛分娩だと完璧に計画出産にしなければならないそうで……

計画出産と言うのは簡単に言うと、「生れる日を決めてその日に必ず生れるように陣痛促進剤を使う」ってこと。

その話を聞いたときのわたしの率直な感想は、

……生れる日って人工的に決定できるんだ!!

ってことだった。
すごいよなそれって、そりゃまあもともと「六月」に生れる予定なんだろうけど日にちまで完全に指定できるのって、星座とか占いとかの運勢も決めることができるってわけで、うーん、それって……なんか違和感あるよね……

無痛ってさあ、だってユダヤキリストの神はアダム(男)に労働のくるしみを、イブ(女)に産みのくるしみを与えたっていうじゃない、わたしは信仰を持ってはいないけど・咄嗟にその話を思い出した、何だかとても涜神的な気がした、『自然に反している』と母は言ったけど、そんな感じ。

でも姉いわく、無痛にすると赤ちゃんの負担も少ないんだって。

自然に従えば、そこで体力の弱い子は死んで、淘汰されていく、自然の均衡は保たれる。だからやっぱりわたしの心情的には自然分娩派かなあと思ったやさき……

母「それにずるいわよ、お母さんすごく痛い思いしたのよ。わたしの時代にあったらやるのに!!」

……今までさんざ語ってた話よりも、そのひとことの方が重みがあった。そんでもって、ほんとにほんとにものすごく痛いんだろうなあと思ったので、じゃあまあ無痛でもいいんじゃん?って気になった。





ちなみにその話の何日かあと姉に会ったら

「もうどっちでもいいやって気になってきた。生れてきてくれれば」

ってすっかり「母親」の顔で言っていた。
それでわたしは、姉をすごく尊敬したのだった。





よのなかにはものごとを、哲学とか倫理とかそういうもので判断するひとと、本能で判断するひとがいる。
すべてを男女という枠で区切れるかどうかわからないけど、男性は前者、女性は後者がより多いのかしらね。


「触れちゃいけないもの」「隔てられたもの」に近づいてしまうのは昔からの習性で、安っぽい恐怖映画のヒロインみたいに、自ら、開けてはいけない扉を片端から開けている。

「隔てられ」「離された」。それは階級の隔たりであったり年齢の隔たりだったりする。

例えばZooの話で書いたみたいな、異国の貧しい人々や、介護体験で会った末期患者の外山さん、名古屋駅で会ったホームレスのヌシさん、そして今回の小学生たち。

彼らにすればわたしは「旅人」で、「誰でもないもの」だから、だからみんな 気兼ねなく話せるんだと思う。一時しかその場に滞在しないから。内情を知らないから。人生相談は赤の他人にするべきだし、懺悔は常にかおかたち・名前・身分の一切を隠して行なわれる。

日常、暮らしてるとそういった名前や顔や社会的身分ごとの、壁で囲われた世界がとても息苦しくて、それというのも私は特に、そういう隔たりに疎いから。鈍いから。
幼い頃、「◎◎ちゃんと遊んじゃいけません」って 大人たちの、そういった禁止の意味がわかんなかった、今でもわかっていない、こことあそことどれだけ離れて居るのか測れない。

そういう生き方は無防備すぎるといつもお叱りを受けるのだけど、あいかわらず何が悪いのかよくわかっていないのです。わかってるのは、人間がそういう記号(名前や顔や社会身分)だけで生きているのではないということ。

映画の中で不合理な行動をとるヒロインみたいに、きゃあああと悲鳴をあげても誰も助けてはくれないんだけどね。

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