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「深く愛することのできる者のみが大きな苦悩をも味わうことができる」←これはトルストイのことば。
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たまにはちゃんと文学しようと思って。カラマーゾフ~は、「大審問官」のくだりを大学の哲学の授業でやって、そんでテストに出た、そのときわたしが何書いたか忘れたけどとにかくひどい点数だった、そんで「ちくしょうこのやろうカラマーゾフ覚えてやがれ」くらいの気分でいた。
『悪霊』読んで面白かったからとりあえずスタンダードなのも読み直そうと思ってさ。
まず全体の感想。言われるほど長いとは思わなかったし人物が混乱もしなかった、たとえ同じ人物にあだ名が複数ついていようが。話が推理じたて、っていうのかな、起伏に富んでるし読ませるし面白い!
1・カラマーゾフの一家の紹介。怠惰で淫蕩、不道徳、小心で傷つきやすくどうしようもない父祖フョードルの打算的な二度の結婚と、子供三人の生い立ち。
先妻の子、長男ドミートリイ(ミーチャ)は28歳、軍人気質で無邪気なまでの考えなし、情熱的で子供のように感情を表す。後妻の子次男イワンはずばぬけて聡明で頭がよく冷笑的、三男アレクセイ(アリョーシャ)は純粋で善良、誰からも愛される気質を持っている。
そして、フョードルの隠し子と言われる、こじき女の子、召使で料理人のスメルジャコフ。
2・事件の発端とあらすじ。父フョードルが、先妻の遺産を長男から騙し取り、罠にかけようと女を使うが、やがてその悪女グルーシェニカをめぐり、親子で争うようになる。
一方で財産争いの調停のため、アリョーシャが預けられている修道院の長老、ゾシマが立ち会うが、それはとんだ茶番劇に終わる。
やがてフョードルが何者かに殺され、事件の犯人はドミートリイに不利に進んでゆくが・・・
3・裁判。スメルジャコフの自殺。イワンの発狂。子供の死。
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とりとめない感想。
ドミートリイをめぐる女二人が俄然面白い。ドミートリイの男らしい振る舞いに義理を感じ、彼の婚約者としてふるまう令嬢エカテリーナ(実はイワンに恋をしている)と、ポーランド人に捨てられて金持ちのめかけとなり、才覚を発揮した妖女グルーシェニカ。彼女たちはどちらも、愛を見失っているという点において不幸だ。
それにしてもアリョーシャがいいこで涙がでそうだ。でもわたしはイワン、あの理性の徒、冷徹な人間のくせに、『大審問官』みたいな叙事詩を書かずに居られなかった彼に惹かれる。
実際美しいのよね、この詩。ときは異端狩りにあけくれる中世に降臨したキリストが、氷のような老人の大審問官に「来るのが遅すぎた、もはやわれわれはあなたを必要としない」と、死刑宣告をされてなお、その老人の額にキスをする・・・っていう話なんだけど。
フョードルもイワンもドミートリイも、あのグルーシェニカだってさ、アリョーシャにはみんな、ざんげするのよね。これは救われたがっているひとたちの物語なのだと、それで、思った。そして救われたがっているひとはみな弱くていとおしい。
もっと細部いろいろ思うところあったのだけど、けっこう以前に読んだので忘れてしまった。今日はここまで!
前方に回りこんでみる。
下手に出ながらさらに近づいてみる
……あきらかに不審の目で見られるとちょっとかなしい。
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猫ってミステリアスでエキゾチックで、この上なく創作意欲をかきたてる動物だよなあ。「猫の泉」「猫街」「我輩は猫である」「猫と庄造と二人の女」「100万回生きた猫」「11匹の猫」「注文の多い料理店」もそうだし、フランス人の詩に「中国人は猫の瞳で時を計る」っていうフレーズがあったなあ、これはオリエンタリズムの極地だわ。対して、犬っていうと佐藤春夫の「西班牙犬の家」と、あと忠犬ハチ公くらいしか今は思いつかない…
猫を題材にした文章は、ただハッピーなだけでなく、どこかに謎を含んだものがいい。
そういう意味で、カポーティの「窓辺の灯火」は、猫文学として適度にブラック&ドライな作品なので、オススメ。
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で 中井の『悪魔の骨牌』やらボルヘス『砂の本』やらバルザックの『セラフィータ』やら、やっと、買っている。いつかは手元に、と望んだ本を入手するこころよさ。
新しく読んでいるのはフロイトの精神分析学入門やら熊楠の論文・植島啓司氏の人類学論考などから翻訳、ブラッドベリとかキングとか、あのへんの。客観的な文章が読みたいブーム。日本語が母語の小説は、今のわたしにはどろどろしすぎてて読むにたえない。
よみかけで積みっぱなしだった本を消化、しきれていないがまあとりあえず。
17世紀を舞台に、主人公にして作者のロベルトの小説を、書き手が「紹介」する形式。あとがきまで気を抜くな!
●ロベルトが遭難し、珊瑚に囲まれた島が見える無人船ダフネにたどり着き、船の中を探検。紙に恋人への想いや、これまでの経緯を書き付ける
●過去の人生、とりわけ夢想の中の敵・フェッランテと16のときの戦を想う
(父と親友・サン・サヴァンと健康と初恋を失う)
●船の中に誰かが居ることを確信
●パリでの社交界の様子、そこで今自分が陥っている事態の元凶となった恋について明かされる
(マザランとコルベールに、世界の定点を見つけるためのスパイを申しつけられる)
●ダフネにおけるカスパル神父との出会い・神父の話とダフネの目的、前日島というタイトルの謎とき
●島へたどりつくため泳ぐ練習をするロベルト、カスパル神父は海の底を歩く、と出発して帰らぬひととなる
●希望がなくなったロベルトはひたすら自分の夢想を書き上げる。フェッランテは死に、心の恋人リリアは瀕死で島へ流れ着く。ロベルトは船を出て海へ。
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ラストが意図的に読者に投げられている。途中にも多重世界の示唆はあったが、ここで切るのはずるいなあ、と、ちょっと思っちゃう。だってがんばって読んだんだもの、バロック いびつ な世界をさあ。時空をあちこち移動し続けるのは読み手にとってぶれ続ける独楽の軸を追うような作業で、退屈にもなる。
なのでがんばって読んだひとは、訳者あとがきまで手をぬかずきちんと読むのがいい、いろいろと丁寧に解説してくれてるから。
また追記します。
五年ほど前から漠然と手に入れたいとねがっていた『S/Z』をこないだようやく買ったので少しずつ読んでいる、が わたしはもともとバルザックの『サラジーヌ』の物語を知りたかっただけなので、そこだけ読んでもう満足しかけている。テキストをばらばらに解剖するのは恐ろしい、自分の文章にあてはめると。こんなに微塵にされてしまったらあとには何も残らないだろう。
バルザックは日本では『谷間の百合』なんかは有名だけど、ほかのはあんまり……ないんだよね。。『サラジーヌ』の訳も、探しても見つからなかった。まあわたしも、バルトの研究書で初めて知ったんだけど。ようするにフランスの彫刻家サラジーヌがイタリアの美しい歌手ザンビネッラに恋をする、かれが男だとも知らずに。そしてサラジーヌはこいするひとが男だと知り絶望し死んでゆく、という話。ザンビネッラが去勢された男であることがなかなか明かされないのがこの話のミソ。バルザックは『セラフィータ』もそうだけどずいぶん両性具有的な存在を描いている。
あとはロード・ダンセイニとかデュルケムとか節操無く。あいもかわらず内田百間やら中井英夫やら短編も買ってるし追悼の意味でアワサカツマオ、あとつとめさきで池波正太郎と中沢しんいちをもらった、それくらい。
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mにオススメされて以来諸星の漫画ははまりつづけている。
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追記・かなり以前に読んでそのままメモだけ残ってたもの。
『悪霊』 ドストエフスキー
上下巻、上はひたすら登場人物の紹介エピソードで読むの辛かったが下巻、第二部で町長夫人ユリアの野望である慈善パーティーをぶち壊すくだりになると俄然おもろい。
最初はワルワーラ夫人の息子、虚無の申し子みたいなスタヴローギンを気に入ってたがどうしてどうして、かわいそうなステパン先生の息子、人畜無害そうでいて黒幕、狡猾なピョートルが最高だ。砂の城をつくりあげた瞬間にぶち壊すみたいな人生の楽しみ方を知っている。でもスタヴローギンにどうしようもなくいかれてる!
かわいそうなのは女の子たちだな。
ツルゲーネフモチーフの詩人のやっつけ方は酷かった。
キリーロフ
「ぼくの考えでは、人間は子供を生むことをやめるに相違ないね。目的が達せられた以上、子供がなんになる?発達がなんになる?
福音書にも、復活のときに子を生まず、…と言われている
ステパン先生の逃亡
馬車でも汽車でもなく街道を歩く
『街道―それはなんというか、長い長い、どこまで行っても果てしがないもの、
街道には思想がある。だが、駅馬券にどんな思想があるだろう?駅馬券にあるのは思想の終末だ』
掲載されなかったスタブローギンの手記
ペテルブルグで幼い少女を辱しめ自殺させた直後の感慨
→問題は、生きていくのが気が狂いそうなほど退屈なことであった
ぼくは自分で自分を赦したい、そのために無限の苦しみを求めている
〈性愛系出版物〉 造語だけど、この際語感重視で。
そういうわけでつれづれに……つれづれの話題らしく・我が性愛の歴史(書物限定)をば。
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わたしが文字を読めるようになったのは三歳くらいの頃で、幼稚園にあがる前に通っていた日曜学校で、幼すぎてお祈りを免除された幼児が遊ぶ部屋に置いてあったアンデルセンの全集をむさぼるように読んでいた覚えがある。
そうして活字に親しむようになってから五年ほども経つと、世の中にある本はどうやら二種類に大別できそうだ、ということが分かった。
すなわち大人が「読みなさい」って薦める本と、そうでない本の二種類。
わたしは勿論素直なよいこだったので、薦められた本を中心に読んでいたのは言うまでも無い。
そうして薦められなかった本はたま~にしか手に取らなかった。今よりもっと本を読んでいた頃で、何しろ出会う物語の殆んど全てが新しいものだったから…。
で わたしが初めて接したいかがわしい本は西鶴の『好色一代女』だった。岩波文庫黄色、亡くなったばかりの祖父の本が大量にうちにまわってきたときのもので、当時わたしは小学校三年生だった。まさか親も小学生が書き下しの古文に手を出そうとは思ってなかったみたい、それに天下の岩波文庫がそんな艶っぽい本を出してるとも思わなかったみたい。
実際わたしにとっては旧仮名遣いを我慢すればそれほど読みにくくは無かった、親切な注記がついてたし、実際日本語だって学んでいる途中だったんだから ちょっと新しい語彙が増えるくらいのもので。
わかんなかったのは、ツビとかアワビとかそういう隠語のニュアンス。隠語が隠語であるゆえんがそもそも、わからない。それでもなんとなくイカガワシイ雰囲気は理解できたので、仄かに興奮を覚えたりもしていた(人間の性衝動は頭脳の働きが大きいってのがこれでよくわかる)。
一代女でこれだけ描写が露骨なんだから『好色五人女』はさぞかし、と期待して読んだらこっちは純粋な悲恋物で、拍子抜けしたのを覚えている。
まあそんなかんじに『好色一代男』とかも読んでね、これで陰間とか男色とかそのあたりの知識を入手して、ついでに「現代と江戸の性風俗差異」みたいなことまで知った。
そういうわけで「古典はエロくてノーマーク・ノーチェックだ」、と知ったのでいろいろと手を伸ばしていった。
『アラビアンナイト』は小学四年生の夏休みをかけて全巻読んだけどこれがまたのっけから性描写の嵐。しかもプレイのバリエーションも多彩で、へえー大人ってこういうことをやってるんだなあ、すげえなあ、と感心しながら読んだ(間違ってる)。
小学校高学年~中学くらいの頃はダン・オニロクの人妻ものとかカワカミ・ソウクンとかちらっと見る機会もあったけどこっちはさすがに未成年にはガード固くて、しかも情景描写のこれでもかというような露骨さがどうも苦手で、あっさり古典に戻った。今もってあたしはエロスは好きだけどエロは苦手。
で、澁澤龍彦なんかを読み始めてからサド文学、『ソドム百二十日』『ジュスチーヌ』に『O嬢~』、マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』にマゾッホの妻の告白録、バタイユの『マダム・エトワルダ』、も少し経ってからマンディアルグ『城の中のイギリス人』、アポリネール『一万一千の鞭』、ジャン・ジュネの一連の男色小説、それと稲垣タルホの『A感覚とV感覚』はじめとする美少年賛美ね。
中学時代は中国古典にハマってたから『金瓶梅』なんかは真っ先にチェックした、でもこれはエロスというよりはポルノだなー。『紅楼夢』も直接描写がそこそこあったりする。
サドはひととおり通読したけど、そこまで夢中になれなかった。これでもかという性行為や拷問の反復は、ほとんど哲学的ですらある。だったらマンディアルグの方がまだしも読みやすい。アポリネールのやつは何気に日本も舞台になってるので親しみわくかも、まあおフランス人が勝手に考えた『なんちゃって日本』だけど。未完だけどビアズレーの『美神の館』は挿絵込みで綺麗だったな。アレティーノの『ラジオナメンティ』は、エロスはともかくとして笑えるのでオススメ。アレティーノ自身、スキャンダルを種に強請りをやって稼いだ金で豪邸に住んで笑い死にしたとゆうとてもいいキャラだしね。
一番読んでないのは現代官能小説なんだけどこれはもう読む気がしない、だって原型って言うか…どんなに斬新で奇抜なものでも、雛形はこれらの古典の中にあるんだもん。だったら吉屋信子の少女小説とか江戸川乱歩とか読んでるほうがまだしも愉しめる気がする。
しかしまあこれだけ述べておいてなんだけど、性行為ってのは本来 書いたり読んだりするもんではなく やるもんだと思ってる(「行為」っていうくらいだし)ので、自分で書いてみようとはさらさら思わない。行為以外の部分には興味あるけどね。